最高の喜び

 私が入居している川越の老人ホ-ム、ケアハウス主の園では、11月22日にクリスマスコンサ-トを行いました。招待した関西学院OBのコ-ラス曲の真ん中に、今年から男性4人のバスが加わったケアハウス入居者13名による三部合唱3曲も入れて頂きました。私もその一人として、バスの練習を5ヶ月余りしました。結果は身びいきのせいか、私たちの3曲に対して入居者たちの評価はかなり良く、まずは安心しましたのですが、司会の施設長がプログラムの最後に、「元牧師の先生ですから大丈夫でしょう」と前置きをして、「依田さんにお祈りしていただきます」と感謝祈祷を私に指名しました。ふつう、誕生会、記念会などの感謝祈祷は、あらかじめ祈る人に連絡があるのですが、この日は忘れたのかもしれません。

 プログラムの流れの締めくくりですから、ご指名に応えて、短い祈りを緊張さめやらぬ中でささげました。導かれた祈りの中で、終わってからもずっと私の心に残った文言があります。「神様、私たちの最高の喜びであるクリスマスのときをお与え下さったことを感謝します」です。その後、私には反省をこめた自問自答が続きました。「おまえは、御子の御降誕を人生最高の喜びと表現したが、ふだん、その信仰で歩んでいるか。今年、85歳のクリスマス集会でこの祈りを主にささげたことを終生忘れてはならない」という声なき声です。

 さて、新約聖書のキリスト御降誕を告げる天使のメッセ-ジには「すばらしい喜びを知らせに来たのです」とありますが、私の祈りの「最高」という言葉には、懐かしい思い出があります。それは16年前、天に召された信仰の友、有山勝さんが家庭集会の時に感謝の気持ちを表すのにしばしば口にした言葉でした。彼は、難病の床にありながらも表情は明るく、その思考には深いものがあったのです。

 また、以前大きな集会に参加した時、あるご婦人の印象的な証しをお聞きしました。彼女は、地下鉄サリン事件の駅の雑踏の中にいて、有名な聖書の言葉、「いつも喜んでいなさい。すべてのことについて感謝しなさい」を示されて、信仰の歩みを新しくさせて頂いたと語られました。

 思えば、私もこの御言葉に引かれて、教会の門を叩いたのでした。今年は、神様の行き届いたお取り扱いを覚えさせられるクリスマスシ-ズンのスタ-トとなりました。(依田名誉牧師)