県央地域新年聖会

9日(月)、石岡教会で、県央地域新年聖会が行われました。講師は渡部師(水戸下市教会)と持永師(石岡教会)でした。

ヨハネの福音書15章1~10節 
 茨城は宣教の難しい地域であるかもしれません。しかし、ドイツのリ-ベンゼラの宣教師たちは茨城の山村、漁村に福音の種を播き、水をやり、牧師たちを招いてくれました。戦後、福音宣教が再開されてから、この茨城の地では続けて礼拝がささげられ、御言葉が開かれ、洗礼と聖餐の礼典が執行され、イエス・キリストの教会がそのいのちを保っています。私たちは宣教の実であり、また神様の御心のうちに入れられている者であります。

 さて、ヨハネ15章にあるぶどうの木は、旧約聖書の時代から神の民、イスラエルをたとえた言葉です。不信仰であったイスラエルの民に対し、イエス・キリストは、まことのぶどうの木であります。そして父なる神様が、農夫にたとえられています。1~4節までの場面設定は、ぶどうの木と農夫です。ぶどうの木は実りをもたらし、農夫はそのために木を剪定します。父なる神様はイエス・キリストによって、豊かな実を得ようとしておられます。そしてぶどうの木の枝を刈り込んで、もっと多くの実を結ぶようにして下さいます。それにはある程度の痛みがあるかもしれませんが、ここで強調されているのは、痛みや訓練ではなく、父なる神様ご自身が、更に豊かな実りのために働いておられるということです。枝は自分の努力や訓練、修行や鍛錬を通し、辛く苦しい中でも我慢して豊かな実りをもたらすわけではありません。ただ、ぶどうの木につながっていれば、父なる神様が適切に整えて下さり、もっと多くの実を結ぶようにして下さるということです。そして弟子たちがイエス・キリストの言葉によって育成されたように、私たちは神の言葉である聖書によって整えられていくのです。

 イエス・キリストにとどまる(4)、私たちはこのことをよく知っています。けれども、ともすると私たちは、枝が独立して実を結べるような言動をすることがないか、考えさせられます。仕事上、何らかの判断を下さなければならない時、家庭において家族に仕え、子どもたちを躾なければならない時、教会の話し合いで意見が分かれ、説明し説得しようとする時、私たちは何を根拠に判断しようとするでしょうか。

 次に5~7節では、ぶどうの木と枝に焦点が当てられています。イエス・キリストはまことのぶどうの木であり、私たちはそれにつながるべき枝であります。私たちがイエス・キリストの枝として多くの実を結ぶためには、イエス・キリストにとどまることが絶対の条件です。まことのぶどうの木にとどまるとは、キリストの言葉がその人の内にとどまることである(7)のなら、私たちは日々、御言葉を私たちの内にとどまらせているでしょうか。私たちがキリストにとどまり、キリストの言葉が私たちにとどまるなら、当然、神様の御心にかなった祈りをするようになり、それがかなえられます。たとえば、クリスチャンとしての成長ということがあるでしょう(ガラ5:22,23、御霊の実)。宣教、伝道も御心にかなったことであり、神様が私たちに託してくださったことです。

 この新年聖会にあたって、私は二つのひろがりを思わされました。それは同時代、地域のひろがりと、次世代のひろがりです。私たちは同時代の人に福音を伝えたいと願います。そして次の世代も福音を知り、救いを得る必要があります(申4:7~9)。私たちは具体的にこのことを祈りましょう。また、私たちは自分のために実を結ぼうと躍起になる危険があるのですが、実を結ばせるのはまことのぶどうの木であるイエス・キリストの養分であり、木につながっている枝をきよめ、整えて刈り込みをされるのは、父なる神様の御業であります。ですから、クリスチャンに目を見張る成長があったり、福音宣教が進んで多くの人が救われるということがあった場合、人間がすごいのではなく、神様がすごいのです。そのようにして神様は栄光をお受けになります(8)。2012年のこの年、イエス・キリストにとどまって栄養と養分をいただき、父なる神様に整えていただいて、多くの実を結ぶ者としていただきましょう。

 天のお父様、イエス・キリストにとどまり、御言葉のうちにとどまります。どうぞ、あなたの実りとしてください。(午前: 水戸下市教会渡部師)


イザヤ60章1節

 祈り合い、支え合う人がほとんどいなかった昔を思うと、このような聖会は本当に幸いで、感謝なことです。今、神の恵みにあずかっている私たちは、井戸を掘った人のことを忘れないでほしい、今、自由に水を飲めることを当たり前だと思わないでほしい、その影に宣教師の先生たち、十分な訓練は受けなかったけれど熱意にあふれた者たちの働きがあったことを忘れないでいただきたいと思います。

 昨日私は、車内で前ロ-マ法王の戴冠式のライブを収録したCDを聞きながら、岩瀬の礼拝に行きました。その中で、法王が御言葉(Ⅱテモテ4:8)を朗読する場面があります。主が義の栄冠を授けられる、「主の現れを慕っている者」とは誰でしょうか。私は今日、この恵みをいただく者のあり方について考えてみたいのです。

 イザヤ58,59章では、神様が言い難い嘆きをもって民の姿を語っておられます。一言で言えば、「私は偽善の信仰を喜ばない」ということです。しかし、公義がないと言われた民に対し、神様は「光を放て。あなたの光がきて、主の栄光があなたの上に輝いているから」と言われるのです。私たちは鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと姿を変えられていきます(Ⅱコリ3:18)。私が変えるのではなく、主が変えて下さるのです。

 ところで、私が伝道者になるようよう語りかけをいただいたのは、大学3年の時でした。真壁にクンツ先生が赴任され、一緒に方丈という村におられるベッカ-先生のところに訪問する途中でした。当時、真壁町と筑波町は筑波山の山頂の地境問題で争い、筑波では「私達は絶対、真壁町の品物を買いません」という看板が出たほどでした。それを見たとき、私はこんな平和が戻った日本なのに、なぜ隣町同士が争うのか、そこで和らぎの福音を伝えるのは私の使命ではないか、と思いました。また宣教師が誰も助けのない所で、下手な日本語でこども会などをやっていらっしゃるのを見て、本当に申し訳ないと思いました。でも私はその時、伝道者にはしないで下さいと祈りました。しかし、祈っても祈ってもその語りかけは消えず、翌年の夏の聖会でついに決心をしました。神学校に入り、石岡には行きたくないと思っていた私に、神様はさらに「私が遣わす」と語られ、石岡に来て53年が経ちました。

 御言葉があなたに語りかけたとき、ア-メン、あなたに従います、それでいいのです(詩51:17)。あなたの上に栄光の主が輝いていて下さるのです。あなたを通して光を表しなさいと言われた主の御心を、一人一人がしっかり受け止めて立ち上がっていかなければならないのではないでしょうか。そして、助け主として私たちに宿りたもうお方は、私たちを励まし、力を与えて、私たちを立ち上がらせて下さるのです。

 主よ、どうぞお一人お一人のこの一年を、あなたの御手にしっかりと握りしめてください。生っちょろい、弁解に満ちた信仰ではない、本当に私のために十字架にかかって、血を流して下さった、そのお方の恵みの故に生かされている信仰者として神を喜び、神の栄光を表し続けることができるように、御言葉に忠実に反応し続け、あなたご自身の輝きを映し続けることができるように、成長させていただくことができるようにしてください。ご一同の上に豊かな祝福を与えて下さい。(午後: 石岡教会持永師)

 14日、岩瀬教会をお訪ねしました(右写真)。教会は、今年84歳になるA姉のお宅の敷地内にあります。A姉は50数年前、当時真壁におられた依田師より洗礼を受けられたそうです。会員数は少ないですが、神様が支えてきてくださっていることに感謝しました。(管理人)