細川牧師、証の放送(FEBC)

1月23日(月)21:48より、FEBC(AMラジオ1566KHz)で細川牧師の証の放送がありました。(現在、インタ-ネット放送でも聞くことはできません。)



 私は茨城県の北部、太平洋に面した、ひたちなか市にある那珂湊キリスト教会の牧師です。これまでの67年の生涯と、40年の牧師生活を通して、今日あるのは本当に使徒パウロが申しました「神の恵みによって、私は今の私になりました」という以外にはありません。ここで振り返って、いくつかお話ししたいと思います。

 第一は、私が悪ガキの少年時代の恵みです。私は香川県善通寺の貧しい水呑百姓の家庭に生まれて、友人をいじめ、親を悲しませる悪ガキでした。ところが、家の前に四国キリスト教学園(現在は四国学院大学)という学校が、私が5歳くらいの頃できたのです。私はそこで、6歳頃最初に福音を聞きました。そして高校卒業まで、この学校が遊び場でした。実際にイエス様を信じたのは東京に出てからですが、この仏教の盛んな町、しかも家の前に福音の拠点が来たということがなければ、今日の私はありません。

 第二は、高校卒業後、東京で浪人生活を送りました。その時、生きる目的は何か、真の自由は何かを考え、幼い頃の聖書を思い出して読み直しました。同時に、深夜放送で当時PBAの「憩いの窓」という番組を聞いて、教会を紹介してもらいました。さらに、予備校の近くにあったKGKのクリスマスで、「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」という御言葉を通して、イエス様が来られたのは自分のためだということを示されて、信じました。そして、求めていた自由についても「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」という御言葉によって、解決を得ました。

 第三に、伝道者への恵みです。私は人間嫌いなところがあり、牧師のような、いつも人間と関わる仕事はいやだと思っていました。法学を学んでいましたので、神様に仕えるには自分のしたい、法学関係の仕事で生涯仕えたいと願って学んでいました。ところがどういうわけか、「お前はやるべきことをやってない」と、背中からいつも責められて仕方がないのです。それを払拭しようと、当時あった学生村に法学漬けになろうとしてまいりました。ところが、上野で乗った列車に隣り合わせた人は、伝道者だったのです。そして学生村へ行く事情を話すと、「あのヨナを見なさい。逃げても同じだ。逃げないで従いなさい」と助言してくれました。しかし、そんなことはわかっている、と思って無視しました。学生村には2ヶ月くらいいましたが、小さな村を選んだので、誰もいませんでした。帰る前日になって初めて、2人の学生がやってきました。そのうちの1人が夜、お茶を飲もうと声をかけてきました。それで話しているうちに、彼がクリスチャンであり、お兄さんが神学校へ行っているということがわかりました。私がどうして学生村へ来たかという話をすると、彼は何を言ってるんだ、スロフェニキアの女と同じじゃないか、落ちこぼれたパンで私たちは今があるのだから従うべきだ、と助言してくれました。私はこの旅の最初と最後に、このように2人の神の使いを通して明確に、自分の考えではなく、神の考えに生きよと言われたことによって、やはり神様の前に降伏しなければと思いました。そして「神の国とその義を第一に求めなさい」、これで生きようと思ったのです。

 第四に、神学生時代の恵みです。私は語学が苦手で、神学校の入学も仮入学で入学させてもらいました。そして神学校3年の終わりになった時、どういうわけか私共の学年はできが悪くて、まだこれでは卒業させられないと、神学校は急遽、お前たちは6月卒業だということにしたのです。そして本当にあわれみによって6月に卒業し、奉仕をする教会も与えられました。

 第五に、牧師としての恵みです。約40年の牧師生活の中で、数えられないほどの罪や失敗をしました。その中でも特筆すべきだと思うのですが、依頼された奉仕を2回すっぽかしたことがあります。さらに40年の牧会生活の中で、私の愛のなさによって、何人の人が教会から離れたことか、いわば、私は何人もの人を殺したに等しいと思います。肉体的に武器を使ったり、何かをして殺したのではないですが、私はその人自身の魂というか、存在を殺してしまった、私の愛のなさがどれだけの人をそういう意味で殺したか、いつも心痛む思いをしています。そのことを思うとき、十字架の上でイエス様に「あなたの御国の位にお着きになる時には、私を思い出してください」と言った、あの犯罪人と同じだと思わされています。そして、そんな者に「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と言われた、あのイエス様の恵みの故に、こうして牧会させていただいていると思っています。

 第六に、子育てにおける恵みです。私たち夫婦には、北海道で2人の男の子と2人の女の子が託されました。私たちは子育ての知恵も愛もなく、親類縁者もありませんでした。しかし教会の兄弟姉妹や、同労の友人夫婦が一緒に子育てをして下さったと思います。本当に子どもは教会で育てられたと実感しています。

 第七に、中咽頭がんでの恵みです。実は今から5年前の10月に、舌の根の部分に4センチくらいのがんができました。石川県能美市にある教会に遣わされて、1年数ヶ月のことでした。私は1972年以来、東京と札幌で奉仕をしてまいりました。一方で、若い頃から日本の伝道の鍵は地方伝道だと、生意気に言っていました。それで、60歳以降は今まで言ってきたことを実現しようと、地方で牧師を必要とするところで奉仕をしようと思わされました。そして2005年、東京の教会を辞して石川の教会に遣わされました。それが1年数ヶ月たって、中咽頭がんになって、舌の1/4から1/2くらいを切除することになったのです。友人や兄弟姉妹は心を痛めて、癒されるよう祈って下さいました。しかし私自身は丁度祈祷会の時の聖書の箇所で、「神のわざがこの人にあらわれるため」に、このがんが用いられることを何より願うようになりました。そして主治医がある時、折入って相談があるというので何かと思ったら、キリスト教信仰について教えてほしいという申し出でした。さらに副主治医という立場の人からも、同じような申し出があって、2人に福音を語り共に祈る機会が与えられました。同室の患者さんたちからも福音を聞きたいということで、そんな機会が与えられました。実はそれは私の願いではなく、神様が語らせて下さって、神のわざがあらわれるために、私を用いて下さったと思っています。中咽頭がんの方は、結果的に舌の切除はせずに緩解状態になって、ドクタ-たちも驚いています。そして以前と同じように語り、牧会に復帰できるようになった恵みです。

 第八に、海外日本人教会応援の恵みです。私は1975年頃から、OMFという宣教団体とも深く関わらせてもらいました。87年から88年の間、ロンドン・バイブル・カレッジで学ぶ機会が与えられました。その時、海外日本人伝道の重要性に気づかされました。しかし語学の苦手な私は、直接海外の教会で奉仕することは考えられませんでした。ところが、地方教会で奉仕するようになってから、パリ、ウィ-ン、ロンドン、フィンランド、ホノルル、またその他、日本人教会で留守番牧師をさせてもらって、いよいよ在外日本人宣教の重要性を確信し、日本宣教の鍵は在外日本人宣教にあると、今主張しています。

 第九に、新会堂建設の恵みです。これまで奉仕した教会で、何らかの形で会堂建設に携りました。その経験から、正直この年になって会堂建設には携りたくないと思っていました。那珂湊教会に導かれても同じ思いでした。しかし、当教会は近い将来、会堂建築に取り組むべきだという思いで祈り、具体的に設計士まで招いて、学びをしていました。そしてこの3.11の大震災です。当地も津波と地震によって、大きな被害を受けました。会員の兄弟姉妹は、この機に地域の隠れ場、逃れ場になるような会堂を建てようと、会堂建設を決断することに至ったのです。しかし必要は約5千万、会員数は13,4名、常識的には無謀な決断です。しかし会員の兄弟姉妹は、主がなさると信仰をもって決断したのです。そして関係諸教会、兄姉に祈りの要請をしました。すると、全世界から続々と祈っています、祈りますという応答があって、兄弟姉妹は自分たち10数人は孤立しているのではない、神が全世界のご自身の家族を用いて、会堂建設をしてくださり、自分たちは現場作業員であると確認させられているのが現実だと思っています。カナの婚礼の時水を汲んだ僕のように、主のわざのすばらしさを実際に味わう恵みを、日々与えられています。聖書の言葉の通りです。「私たちが滅び失せなかったのは、主の恵みによる。主の憐れみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です』と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。」—これに尽きる今までの歩みです。