大切な言葉「ありがとう」

美しい日本語の一つに、「ありがとう」が選ばれたことがあります。

 私は、15年前の那珂湊教会季刊紙に「感謝を忘れた私」という題で、巻頭言を書きました。それは簡単に言うと、私の手を離れた財布を戻して下さった方に、まっ先に「ありがとうございます」を言わず、事情説明をした後でその態度をおわびし、互いの心が通じ合ったという内容でした。

 今回も同じような反省材料となった経験を記します。それは、今年4月末、旅行先で腰椎圧迫骨折をしたことの後日談です。旅を終えて北海道千歳空港までは、招待して下さったI兄の車で送って頂き、手続きその他、至れり尽くせりのお世話になりました。羽田に着いてから川越のケア・ハウスまでの面倒は、予めI兄と息子が綿密に連絡を取って、何不自由のないようにしてくれました。どちらも、学校教師の仕事をやりくりしての労でした。帰宅後、北海道のI兄宅へは電話をし、礼状も出しましたが、息子へはケア・ハウス到着直後、一言礼を言って別れました。

 その後暫くして、息子の方から電話があり、尋ねられるままにこちらの状況などの説明をしたのですが、その中で一言、「お父さんは感謝が足りない」と指摘されました。はっとした私は、身内への甘えに気がつきました。電話が来るまでこちらから電話もせず、手紙も書かなかったのです。日頃、私が口にする「筆無精なので…」の言葉が言い訳の発言ではないかと示され、昔、聖書学院の友人との会話の中で、「やっぱり君は自分のことしか考えていない」という苦言をもらったこと等も思い出し、どちらも親しい、心の通じ合う間柄だからこその思いきった忠告なのだと気がつきました。

 「親しき仲にも礼儀あり」は、いつの時代にも通じる戒めであることを思い知らされた経験でした。