MEBIGセミナ- ①

9月16日~18日、水戸バプテスト教会でMEBIGセミナ-が開かれました。講師は山哲平師です。

哀歌2:19

 のお友だちは三つの物に飢えています。第一に、親の愛に飢えています。児童憲章には大きく三つのことが書かれています。まず、児童は人として尊ばれる。しかし、現実はどうでしょうか。北海道では年間3万人以上のお友だちが中絶されています。次に、児童憲章にはこう書いてあります。児童は社会の一員として重んぜられる。教会で、お友だちは神の家族の一員として重んじられているでしょうか。更に児童憲章では、児童は良い環境の中で育てられるとあります。しかし、お友だちが住む環境は、良い環境と言えるでしょうか。2011年の統計では、1999年以来、虐待されたお友だちの人数は最高でした(死者39人、その4分の1は0歳児)。児童虐待の摘発件数は、6年連続で増加しています。そして児童虐待の加害者の60%以上が、実の両親なのです。親の愛に飢えているお友だちの現状を、私たちは覚えなければいけないと思います。フランス、イギリス、アメリカで、それぞれ国ごとに子育てについて調査をしました。「子育ては楽しいですか」という質問です。楽しいと答えた人は、フランス77%、イギリス71%、アメリカ50%に対し、日本ではわずか21%でした。


 第二に、お友だちは聖い霊に飢えています。雑誌を見て、占いのないものはほとんどありません。飛行機の中でさえ、占いが上映されます。お友だちには聖い霊が必要なのに、汚れた霊にまみれていて弱り果てているのです。

 第三に、罪のゆるしに飢えています。クリスチャンの家庭に育ったあるお友だちが、こう言いました。友だちと店に入って、友だちが万引きした物を一緒に食べようと言われ、食べた。自分は盗んだわけではないからと、自分の心に言い聞かせていたけれど、それ以来ずっと心が重かった。本当にゆるしてほしいと。一緒に悔い改めの祈りをしました。罪のゆるし、いや罪そのものがわからないから、お友だちは弱り果てています。

 さて、神様はお友だちをどのように見ているでしょうか。(詩127:3~5)第一に、お友だちは主からのプレゼントです。「賜物」(3)はヘブル語では「ナハラ-」と言い、土地を表す言葉です。この時代、土地はなくてはならないものでした。それくらい大切なものがお友だちなのです。神様は教会へお友だちを送ることによって、教会を存続させようとしています。第二に、主からの報酬(3)です。三つの報酬を挙げたいと思います。まず、私たちの信仰が聖められます。純粋になっていきます。また、お友だちが大人を導きます。そして、いのちを感じます。もしみなさんが弱くなってきたなと思ったら、お友だちと関わることです。第三に、お友だちは矢のようです(4)。敵をやっつける矢、つまりあなたの片腕、同労者として育っていく、それがお友だちだと言うのです。

 しかし、教会学校の現状はどうでしょうか。第一に、教会学校ごっこをやっていなかったでしょうか。ごっことは真似事、それらしいけれど本物ではありません。教会には聖さ、厳しさが大切ですが、楽しさや喜びがなかったら、それは教会学校ごっこです。また、道徳ばかり教えていないでしょうか。私はアメリカの神学校に行き、多くの教会を見学させていただきました。確かにお友だちのカリキュラムはたくさんあるのですが、残念ながらそのほとんどが、道徳教育で終わっているように感じました。お友だちを救うのは教えではなく、キリストです。

  第二に、学んでばかりいなかったでしょうか。日本人は非常に知的な民族だと思います。しかし、学んでも行動に出なければ何もなりません。やってみて成長するのです。お友だちが来ないね、と言っているだけではお友だちは集まりません。契約達成世界一のギネス記録を持つ、ソニ-生命トップセ-ルスマンである鈴木さんは、こう言っています。朝起きたら調子が悪くても「おはようございます」と言うのは、人としての常識。同様に、「保険の話を聞いて下さい」と言うのは、営業マンとしての常識ですと。私たちに置き換えるなら、「イエス様の話を聞いて下さい」と言うのは、クリスチャンとしての常識です。言わないから伝わらないのです。今も、飢えのために弱り果てているお友だちがいます。坐ったり、議論している暇はありません。立ち上がって、出て行かなければなりません。

 第三に、本当に祈っていたでしょうか。どのように祈るべきか、哀歌2章19節に戻りましょう。まず、熱心に祈ることです(夜の間に~叫び)。次に、信じて祈ることです(心を主の前に注ぎ出せ)。そして、あなたの霊の子どもとして祈ることです(あなたの幼子たちのために祈れ)。どうか、お友だちの働きをやめないで下さい。祈る手をあげ続けて下さい。

 ごんべい先生が愛隣チャペルに赴任してきた時、教会は混乱していました。婦人会でも役員会でも牧師の批判をし、青年達は隣の教会に相談に行く始末でした。そういう中、牧師夫妻と、ある一人の教会員がクリスマスの準備をしていました。牧師夫妻は子どもを寝かせて教会に来ていました。夜中の2時頃、ごんべい先生は胸騒ぎがして、教会の玄関を開けてみました。すると、そこに自分の小さな息子が立っていたのです。夜中に目が覚め、裸足で雪道を歩いて来たのでした。大人の足で10分くらいかかる距離です。ごんべい先生は息子を抱えて、牧師をやめたい、明日は大切なクリスマスの伝道集会なのに、誰も手伝いに来ない、私も自分の家族だけでクリスマスをお祝いしたいと思ったそうです。でもその時、イエス様の十字架が迫ってきました。お前は自分の子どもが震えていただけで私を捨てるのか、私はお前のために、命を捨てたではないか、私はお前のために、最後まで堪え忍んだではないか。あなたは私を愛するか。イエス様のその声を聞いたとき、イエス様、もう一度やらせて頂きます、でもどうせやるのなら、どうか祝福してくださいと祈って、新しい出発をしました。以来、お友だちの働きに力を入れ、伝道をしてきました。たくさんのお友だちが教会に集まるようになりました。そしてたくさんのお友だちが救われていきました。私もその一人です。もしあの時、ごんべい先生が牧師をやめていたら、或いはお友だちの働きをやめていたら、今、私はここにいないです。私の家族も救われなかったでしょう。今は苦しいかもしれない。でも必ず、あなたを通して、あなたの教会を通して、救われるお友だちがいます。そして、もしかしたら、私のように牧師になるかもしれない。御言葉に目を向けましょう。「主に向かって手を差し上げ、あなたの幼子たちのために祈れ」(哀歌2:19)。天のお父様、あなたの愛するお友だちが飢えのために、滅びに向かっています。そのお友だちのために祈り、本当の愛を語ることができるのは、教会学校の先生だけです。どうか、そのお友だちに手を届かせて下さい。あなたの決心、感謝、或いは悔い改めを御前に声を出して祈りましょう。