与える幸い

イエス・キリストの数多くの教えの中に、「受けるよりは、与える方が幸いである。」という御言葉があったことを、使徒パウロは紹介しています。今回は、この言葉について考えてみましょう。

 先ず注意すべきことは、ここでは与える幸いが示されていますが、受けることは不幸だとは言われていないのです。与えること、受けることはどちらも幸い、しかし与える方がいっそう幸いであると語られているのです。この言葉は、神様と人間の立場の違いを考えさせます。

 旧約聖書の創世記1章1節に、「初めに神が天と地を創造した。」とあるように、聖書の神は無から有をつくり出す創造者、つまり与える主、天地万物の主、生きて働かれるお方であって、何一つ材料なしに宇宙をつくり、受けることをせずにすべてのものを与えられるお方です。それに対し、私たち人間は神につくられたものとして、無から有をつくり出すことはできず、一方で受け、他方で与える存在なのです。使徒パウロは新約聖書の中で、「あなたには、人からもらったものでないものが何かあるのですか。もし人からもらったのなら、なぜもらっていないかのように誇るのですか。」という手紙文を記録しています。神は無から有を創造し、人間は有から他の有をつくりだすのです。

 しかし、人間が何かをつくり出せるということは、大変な能力であり、特権を与えられた存在であることに間違いはありません。人間は受けて与えるとしても、何かを与えることができる存在なのです。創世記には、人間が神のかたちに似せてつくられたとありますが、与える存在という点でも、このことが言えます。

 人間がただ受けるだけでなく、与えることができるということは、聖書の中にいろいろな形で示されています。イエス様はある時、旅の途中でサマリヤに住む女に、味わい深い御言葉を語られました。「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」泉は隠れた水源から絶えず流れ込んでくる水を自分に与え、他者を潤してくれます。そのように、人間も受けるだけではなく、与える側に立ってこそ、真価を発揮することができるのです。

 ところがどうしたわけか、人間は与えることよりも、受けることを喜ぶのです。中には与えることは嫌いで、受けることだけを願う人すらいます。中近東の死海は、水位が余りに低く、水のはけ口がないため、魚はいないし、その周囲は荒涼とした砂漠であることは有名です。受けるだけで与えることをしない人の精神生活は、ちょうどこの死海のようによどみ、暗く寂しいものとなってしまいます。(依田名誉牧師)