いっしょに歌おう 第16回

「かかし」、「赤とんぼ」、「見上げてごらん夜の星を」、「すみわたる大空に(教会福音讃美歌492番)」を歌いました。参加者は10名でした。



創世記15:5~6,ロ-マ人への手紙4:3~8

 「見上げてごらん夜の星を」という曲で、ある方はこの歌は自分に勇気を与え、本当の幸せが何かを教えてくれたと評しました。皆さんにとって、何が一番幸せでしょうか。

 日本人の幸せ観について、鈴木さんという慶応大学の教授が、岩波新書の中でこう説明しています。幸せの「幸(さち)」は、もともと韓国語の言葉から来ていて、その意味は弓、矢、銛といった狩猟する道具です。それが日本に伝わり、獲物を表すようになりました。だから、私たちは海の幸、山の幸と言いますね。それだけでなく、獲物をたくさん持っていることも幸と呼びます。今はもう言わないでしょうが、私たち日本人は、2,30年前にはアジア、アフリカのことを後進国と呼び、そこに住む人々を何もなく不幸せだと思っていました。しかしたくさん持っている日本人は、1年間に3万人以上自殺しています。

 聖書の幸い観はどうでしょうか。今から4千年前、神様はアブラハムに、あなたの子孫は天の星のようになると言われました。アブラハムは神様を信じ、神様は、言われた言葉をそのまま信じたアブラハムを義と認められました(創15:5~6)。それから約2千年後、パウロはこのことを具体的に説明しました。つまり、不敬虔な者(自己中心、偽り、妬みがある私たち)を義と認めて下さる方を信じるなら、その信仰が義と見なされるというのです。義と認められるとは、不法を赦される、罪をおおって罪が無い者のように認めて下さるということです。聖書はそれが「幸い」だと言います(ロ-マ4:3~8)。つまり聖書の幸い観は、物を多くもっているという幸い観ではなく、神様に罪を赦されることを幸いと思う幸い観なのです。そしてこの幸い観は、どんな嵐が来ても、死ぬ間際になってもなくなりません。

を見るたびに、神様はこんな私をも赦して下さるのだ、何と幸いなんだろうと思うようになりたいですね。

天の父なる神様、今日は星のことから、神様が私たち一人一人に目を留めて下さり、私たちの罪を赦して下さることを覚えることができて感謝します。そして不法を赦し、正しいと認められるあなたの愛を感謝します。どうぞ、罪を赦され、あなたとのすばらしい関係を持つ者の幸いをもって生きる者として下さい。病気になっても、お金がなくても、死ぬ間際になっても奪われないこの幸い観をもって、日々歩むことができるように、そして悩んでいる人の所に、奪われない幸いを持ち運ばせて下さるようにお願い致します。