2013年県央区域新年聖会

1月14日、八郷教会において、県央区域新年聖会が行われました。当日は大変寒く、午後からは雪も降りましたが、30名あまりの方が出席されました。講師は山口勝政師と尾崎祐司師でした。


キリストに集中して ヘブル人への手紙12章1~2節


 昨年の暮れに、本当に心を打つ話が二つありました。一つは、11月にノ-ベル医学生理学賞を受賞された、山中伸弥教授が授賞式の後に言われた言葉、「ノ-ベル賞は私にとって過去形になる。これからの研究が本当に大切…」です。先生のIPS細胞の研究は、多くの難病を抱えておられる方々を救う決定打になるかもしれない、不治と考えられていた病が癒されるかもしれない、そんな希望を与える研究です。ですから、ノ-ベル賞をもらったという過去の栄光の座に坐らず、まっすぐ前を向いて、使命を持って研究を進めておられる、それは大変美しい姿でした。もう一つは、元ニュ-ヨ-ク・ヤンキ-スの4番打者であった松井秀喜選手の話です。彼は2009年、ワ-ルドシリ-ズで最高殊勲選手に選ばれ、日本人初のMVPを獲得しました。前ヤンキ-ス監督であったト-リ監督は、松井選手のことを「彼はいつもチ-ムの勝利のために考えてプレ-をしていた」と語り、アメリカ人の野球評論家の誰もがそれを認めています。「大リーグのある監督が言ったそうだ。『野球には五つしかない。走る、投げる、捕る、打つ、そして力いっぱい打つことだ。』ただ打つのではない。巨漢に伍して力いっぱい打ち続けた『挑戦の人』に、拍手を送りたい。」と、天声人語は結んでいます。このように山中教授にしろ、松井選手にしろ、一点に集中して生きるという生き方は、美しいと思いませんか。同様にキリスト者がキリストに集中して生きる、これは大変美しい生き方であると思います。

 しかし現実に、一点に集中して生きることは難しいです。なぜなら、私たちの心はいろいろな所に分散するからです。私たちがイエス・キリストに集中できない理由は、社会が豊かすぎて物が溢れている、私たちの目を奪う物がありすぎて、物質的な物に心をとらわれすぎて霊的な真理に集中できないからです。ある若い牧師が私に、いくら聖書研究をしても、信徒がなかなか変わっていかないと言いました。教会の成長の鍵は、聖書研究と祈りにあります。しかし聖書を読んでいても、私たちはその深い意味をなかなか体得できない。御言葉が本当にわかったという確信、自分が新しい、生まれ変わったような世界に生きているというような体験を持つこと、それはとても大切だと思うのです。聖書は、神様からの心をこめた手紙です。私たちにはキリストの心があるので、聖書を神様の御思いが表われている書物として悟ることができます(Ⅰコリ2:11~15)。しかし今日、みなさんは聖書の霊的な真理を悟って生きておられるでしょうか。

 ここで、心がイエス・キリストに集中できない原因について考えてまいりましょう。第一は思い煩い(心配)です(マタ6:25~28)。第二は心の偶像です。ニュ-ヨ-クマンハッタン島で6000人の大教会を牧会しているケラ-師は、その著書「偽りの神々」の中で、「現代人は誰でも金、セックス、権力を追求している」と述べています。たとえば、ニュ-ヨ-クで始まったリ-マンショックの根底にあったものは貪欲でした。そしてもし欲望が得られないと、逆に挫折して酒、ドラッグに溺れたり、反社会的な行動に入っていく人が多いのです。私たちにはそれほど大きな欲望はないかもしれません。しかし、人から拍手喝采されたいとか、よく思われたい、人々の中心にいたいという願いはあると思います。そういう時、「あなたの主権者はどなたですか。欲望ですか、神様ですか」ということを考えたいと思うのです。キリストに集中するとは、自我に死ぬことであり(ロマ6:4~6)、そのライフスタイルを神の御国に置くということです。世の繁栄を求めるとき、私たちの視線は滅びていくこの世に向いています。

 みなさん、今年一年を一点集中で生きてみようではありませんか。誰でも出来る生き方、それは信仰の創始者であり、完成者であるキリストに集中する生き方であります。

天の父なる神様、私たちの心を惑わす物が現代の社会にいっぱいあります。私たちはそういう物に惹かれやすい者ですが、どうか惑わされることなく、十字架のイエス様を見上げて、今年一年をゆるぎなく歩むことができるように、そしてそうした中にあって私たちが考えた一つ一つの目標があなたの御心にかなって、実現されますように祝福して下さい。お一人お一人の健康を祝福し、お守り下さい。(午前:八郷教会山口勝政牧師)

 

ささげる恵み  ピリピ人への手紙4章18~20節

が小川教会に赴任した最初の一年間は単身赴任でしたが、10ヶ月で挫折してしまいました。その原因は、祈祷会のたびにある方が昔の出来事を丁寧に話して下さって、それを聞いていると、私ならやっていけないかもしれないと思ったからです。もし家内の励ましがなかったら、この聖会にも来ていなかったかもしれません。こうした危機感を覚えながらも、私は三つのことに取り組みました。その第一は教会をきれいにして、新しい人が来たいと思うような教会にすること、第二は牧師給を上げないこと、第三が家族伝道です。まず、仕事の都合で礼拝に出席できない姉妹のために、2001年から朝7時に早朝礼拝を始め、最初はその方と牧師夫婦3人の礼拝でしたが、役員の方々もしだいにご主人をこの礼拝に連れてこられるようになりました。こうした取り組みの結果、1990年の平均礼拝出席者数14名が2002年には23名に増え、財政も祝福されて、会堂の修理、牧師館の増築や看板を立てることができました。家族伝道も祝され、私共の父を含め、約10名の方が受洗されました。一方、13年半の間、最も衝撃的だったのは、納骨堂の問題でした。近隣に納骨堂を作ることに同意しない方がおられましたが、私たちは書類を揃えて町役場に提出しました。するとすんなりと許可がおり、主に感謝しながら工事を始めたのですが、すぐにいろいろな妨害が起きました。きわめつけは、お墓の横の草刈りをしていたところ、ゴルフのクラブを持って、鬼のような形相で恫喝されたことです。その時私が神様から示されたことは、恐れるなということでした。神様は私に、平常心を与えて下さいました。最後には民事訴訟を起こされましたが、私たちに何の問題もないような判決が下され、神様に感謝しました。この13年半を振り返ると、反省させられることばかりですが、そのような中で守られてきました。それは主に依り頼んで祈ってきたことと、十一献金をしてきたことではないかと私は思っています。


 箴言11章24節を十一献金に当てはめると、十一献金を忠実にする人は富み栄え、十一献金を惜しむ人は乏しくなると理解できるのではないかと思います。主の兄弟であるヤコブは、信仰も行ないがなかったら、それだけでは死んだものだと言いました(ヤコブ2:24~26)。16世紀のロ-マカトリック教会は、修道院に入って修行することが救いに結びつくと考えたり、懺悔のためにお金を払って免罪符を買うことによって救いを買い取ろうとしました。或いは断食とか、良いわざ、功績を重ねることによって、救いを確かなものにしようとする動きが盛んでした。それが宗教改革を生み出す背景となりました。宗教改革者たちは、人間のわざが人間を救うのではなく、救いの主導権は神の側にある、神の御子イエス・キリストを信じる信仰によって救われると主張しました。つまり宗教改革の運動は、イエス・キリストの教えの原点に立ち返る運動であったと言えます(ロ-マ3:28、ガラ2:16)。人が神との関係を回復できる道は神様によって備えられ、キリストによる救いのみわざは、この私のためになされたものであることを信じ、受け入れることが信仰であり、その信仰が私たちを神のもとへと回復させるのです。それが信仰によって義と認められるということであり、神様から一方的に与えられる無代価の恵みであります。

では、このような信仰は、ある時点でイエス・キリストを信じれば終わりになるのでしょうか。イエス・キリストは、主よ、主よという者が天の御国に入るのではなく、イエス・キリストを主と信じる信仰に立って、神の御心にかなった行ないや実践をするよう語っておられます。また、信じることによって義とされることを強調した使徒パウロは、キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける、受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのだと教えました。このように信仰と実践が結びついていることを、私たちは見落としてはなりません。ヤコブは自分には信仰があると言っている人々に、新たな問いかけをしました(ヤコブ2:14)。ここで注意しなければならないことは、生きた信仰とは何かということです。16節の「安心して行きなさい」は、ユダヤ人が別れるときに使う挨拶の言葉であり、キリストが病を癒された時にかけられた言葉でもあります(マルコ5:34)。イエス・キリストは実際にこの女性の病の苦しみを解決され、言葉にふさわしい行ないがなされました。また、聖書には、信仰が行ないになって表れた物語が記されています(マルコ14:3~9)。この世の欲や妬みの対象になってしまいがちな富を私たちが感謝して献身のしるしとしてささげる時に、神様は私たちの思いを遙かに超えてご自身の聖なる目的のために役立てて下さいます。ピリピ4:18では、ピリピのクリスチャンがパウロの働きのためにささげた贈り物は、パウロの乏しさを補うことができたと同時に、贈り物をした人々に対して祝福となって返ってくるのだと書かれています。

では、神様が受け取ってくださる供え物とは、どのようなものでしょうか(詩51:16~17、ロ-マ12:1)。マルコ12:40~43では、献身のしるしとしてささげたレプタ二つの献金が主によってきよめられ、そのささげものを通して、彼女自身が主に受け入れられたということを教えられます。十一献金について耳にすることがあると思います。十一献金ができない理由を考えたり、献金をしなくても感謝で溢れていればいい、更に十一献金という教えは旧約の教えであって、新約の時代の私たちは、旧約の律法を守る必要はないと思っている方がおられるかもしれません。しかしイエス様は、律法を成就するために来たのだと言われました。十分の一を神にささげるということは、モ-セを通して律法が与えられる400年以上前にアブラハムが行っています(創14:18~20)。またマラキ3:10では、十分の一をささげてわたしをためしてみよとあります。これは反対に、私たちが神様から試されているのです。十一献金はささげる人にはかりしれない祝福をもたらすと共に、主の家をも豊かにします(Ⅱ歴31:4~10)。信仰によってささげたものは、天に宝として積まれ、報いとして返ってきます(ピリピ4:19)。

恵み深い天の父なる神様、罪人であった私たちを神様の憐れみによって救いに入れて下さり、心から感謝をいたします。私たちは大きな恵みをいただいておりますが、その恵みを主の栄光のために用いるために献金、そして奉仕を通してささげて行く必要があります。それは決して無駄にならない、天に宝として積まれ、神様の大いなる恵みとなって返ってくるということを教えられました。どうぞ十一献金をささげ、教会が恵みを受けて更に福音が広められていきますように。神様、どうぞこの県央区域の教会を顧みて下さり、祝して下さるように心からお願い致します。(午後:尾崎祐司師)