希望の神

「木には望みがある。たとい切られても、また芽を出し、その若枝は絶えることがない。」(旧約聖書ヨブ記14章7節)

 の入居している川越の老人ホ-ムでは、年二回食堂の席替えが行われるのですが、今年は初めて窓際に沿って外の景色を眺められる席を選びました。一日に三度、目の前に広がる自然を眺めながらの食事を半年間続けることができることは、生まれて初めての経験です。そんなわけで、隣席のお仲間との会話は天候のこと、行事の確認等の他に花の美しさ、樹木の成長、鳥たちの動きなどが話題となっています。今年も、新緑の季節には思い切り枝々が剪定された、道路際の柿の木の枝の切り口から新しい枝が伸びて葉をつけ、五月には立派な樹木になっていました。

 ある朝の会話の中でそのことが話題になったとき、「木には望みあり。」などと聖書知識を誇るようなことばが、私の口から飛び出したのです。思わずキザだったかなと反省の思いになったのですが反面、いつでも御言葉が心の奥深くから出てくることを思い、身勝手ながら御言葉を伝えたのだからと勝手に答を出しました。

 その後、イエス・キリストが説教の中で「空の鳥を見なさい」、「野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい」と語られた御言葉を思い出し、イエス様の御言葉の奥深さを知らされました。

 私たちには五感が与えられており、学びや経験を通してそれぞれの感覚が深められていくように、創造主であられる神を信じる者としては、今も働き続けておられるいのちの主であられる神を、身近なお方として覚える信仰をもっと深めなくてはと、改めて教えられました。

 また、今週は知人の葬儀のご奉仕が控えておりますが、聖書の示す神が希望の神であることを、最近の経験を通してお伝えしようと思っています。(2013年6月9日)