人に語りかける神

私たちクリスチャンは、聖書のことを神のことばと呼んで信じています。その聖書が「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」と語って、創造の神が自然の支配者であることを教えているのです。

 そして、聖書の記録の中には、神が人に語りかけた例が沢山記されています。旧約聖書第一巻の創世記3章には、最初の人アダムとエバが禁断の実を食べて神様に顔向けできなくなったとき、神様の側から呼びかけ、「あなたはどこにいるのか。」と仰せになったという記録があります。

私はテレビの時代劇で、賊に我が子をさらわれた親が悲痛な声で子の名前を呼ぶ、愛の叫びの場面を観るとき、生命の与え主である父と呼ぶべき創造主の存在の自覚なしにこの世に生まれた一人一人が、自己中心の心を抱いたまま成長し、聖書が教える神を信じない罪人の歩みを続ける姿に、愛の父から離された子の不幸と、その情況への神の御心の痛みがあるという類似を思うのです。


 クリスチャンが父とお呼びしてお祈りする万物の与え主であられる神様の語りかけは、今も続いています。教会が、聖書が、信仰者が、その仲介の役割を果たし続けています。

 私の60年以上の信仰生活の中で、大切な節目となった経験のいくつかには、忘れられない聖書のことば、言い換えれば神の語りかけがありました。まさにそれは生きて働くことばであり、私の人格の中心に植え込まれたことばです。

 新約聖書には、「神のことばは生きていて、力がある。」(ヘブル人への手紙4章12節より)と記されています。(2013年9月9日)


☆ 私は腰が少し曲がり、歩行も遅くなった以外、元気に過ごしています。