重荷、試練

 徳川家康は、人の一生は重い荷物を背負って遠い道を行くようなものだと語りました。

 私は、高齢者となった今までの歩みをふりかえる時、数々の重荷の経験を思い出します。その中には、試練と呼べるものもありました。

 重量挙げの選手は、より重いものを持ち挙げたいと願って励みます。それとは違い、人生の重荷は重圧感とも言われて嫌われます。重荷、重圧は、人生にとって全く不必要な経験なのでしょうか。

物理的には圧力がかかることによって安定を保つということでもあり、その圧力が結構大切になっています。たとえば、大海を航海する船舶はある程度の荷重が必要で、軽ければ転覆してしまいます。様々な重責、時には試練とも言える重荷を経験することがあります。それらのない人生だと、人はゆるみきって締まりのない毎日を送るようになりかねません。

、エジプトでの奴隷生活から解放されて荒野の旅を続けたイスラエル人は、神の与えられた天からの食糧、マナを毎朝拾い集める労をとるように命ぜられました。こざかしい者は二日分以上集めたのですが、一日分以外は皆、腐ってしまいました。二日分以上集めて他の日は楽をする、ということは許されなかったのです。

私たちには日々果たすべき責任、役目があります。現役を離れた人が急速に衰えていくという話をよく聞きます。私たちは生涯、様々な重圧の中で強められながら、役目を果たしていくのです。

このような人生を歩む私たちに、イエス・キリストは招きの声、助けの声をかけて下さいました。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(新約聖書、マタイの福音書11章28節)

☆ ケアハウス創立記念会でのコ-ラス発表、文化祭への書道作品発表などで、結構忙しく過ごしてきました。80歳半ばを過ぎて忘れっぽく、気配り、注意力の衰え等、文字通り老人独特のミスも増してきました。骨折後の痛みも少し残って、歩行には無理ができないところですが、日常生活には何ら差し支えなく過ごしています。会堂建築が順調に進むよう、祈っています。(依田名誉牧師)