2014年県央区域新年聖会

13日、水戸下市キリスト教会において、県央区域新年聖会が行なわれました。講師は内山師(小川キリスト教会)、細川師及び佐藤兄(那珂湊キリスト教会)でした。

  見よ。わたしは新しい事をする 

          イザヤ書43章18~19節、55章11節 

 

私は今、小川キリスト教会で牧会させていただいています。ちょうど2年目に入りました。それ以前は、神栖めぐみキリスト教会というところで、15年半牧会をさせていただきました。小川での働きの中で、改めて以前の経験や恵みを思いつつ、茨城での伝道ということを頭に置きながら、今日与えられた聖書箇所、「見よ。わたしは新しい事をする」から、神様の恵みをいただきたく思っております。

 聖書では、新年についてはっきりと触れています。出エジプト記12章には、過ぎ越の後モ-セによってイスラエルの民が導かれ、これから新しいスタ-トをする、その時に言われた言葉として「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ」(出エジ12:2)とあります。私たち自身は神様のあわれみによってイエス・キリストを信じ、新たな歩みをしているわけですが、新年にあたってこの事を思いつつ、2014年を歩んでほしいと思います。一方、荒野での40年は、イスラエルの民にとって戦い、困難、苦しみの旅でした。私たちの人生も同様に、救われてすべてがハッピ-で終わるわけではなく、信仰生活の中でいろいろなことがあります。しかし、私たちは約束の地をめざしていくわけで、まさにこのイスラエルの民と同じような状況にあります。


 さて、イザヤ書の時代、イスラエルは政治的に、経済的な問題を抱えていただけではなく、信仰的な戦いがありました。神様から離れ、人間の力に頼ろうとする背景があったのです。同じように今は、信仰生活が大いに試みられている時代です。日本では高齢化が進み、特に地方の教会は、宣教のわざが前進するために必要な力がなかなか持てない状況に直面しています。それに対し祈り、神様の助けを求めていくことはもちろんですが、私は信仰の老化現象も感じるのです。また実際の年齢とは別に、若い人々の中にもこのような現象が起きていないでしょうか。いや、信仰生活が砂漠化していないか、年の初めに点検し、そうならないように神様からの力をいただきたいと思います。

 私たちは過去にとらわれ、殻の中に閉じこもりがちです。年をとると、これからの事より、昔を思い返しては自分を慰めることが多くなります(18)。ここで注意したいのは、過去を全て忘れろということではなく、恵みを覚え感謝することは必要だということです。そして、「新しい事」に是非期待したいと思います。「新しい事」とはこの世で成功することではなく、私がするのでもありません。神様がなしてくださること、即ち魂の救いです。私たちが神様の導きの中で福音を伝えていく時に、神様とは違った方向を向いている人の心の中に新しいことが起きる、福音が芽生えていくのです。「あなたがたは、それを知らないのか」(19)、私たちは本当に鈍感です。神様の力、その人の心の状態について私たちははっきり読みとることができません。でも神様はちゃんと働いていて下さっています。新しいことが一人でも多くの人に起こされ、神様のもとに導かれて救われていく、これがイザヤを通し、今日の私たちに励ましの言葉として与えられていることを覚えたいと思います。

 さらに神様は、「荒野に道を、荒地に川を設ける」と言われました(19)。クリスチャン生活の中で、様々な誘惑に誘われ、歩むべき道を失ってしまうこともあるでしょう。しかし神様は道を備えて下さいます。また、いのちの水を届け、生きる力を与えて下さいます。イエス様の十字架と復活を原点に歩んでいくとき、いろいろな試みがあっても私たちはそれを退けることができます。そして55章11節の御言葉に信頼し、新しい年を歩んでまいりましょう。

 恵み深い天の神様、今私たちは2014年の歩みをスタ-トいたしました。この年が昨年に比べて、また違った意味での新しい年となりますように。どうか、私たちそれぞれの信仰生活の歩みの中において、新しい事を起こして下さいますように。そしてまた、それぞれの教会の上に神様のわざがありますよう、そのために、私たちを神様に祈り続ける者として下さいますように。どうか、この2014年がお一人お一人にとって本当に充実した信仰生活であったと言えるように、私たちを導いて下さいますように。そのためにも、神様の御言葉であります聖書を通して、あなたの御声を聞いていくことができますように。そしてその御言葉に従っていくことができますように。2014年が祝福され、神様を崇める一年としてくださいますように、お一人お一人の歩み、教会を通して、神様の栄光が現わされる年となりますように。豊かに豊かに神様の恵みがありますように。(小川キリスト教会牧師 内山茂生牧師)

このわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから  ヨハネの福音書13章1~17節

 昨年は、日本福音キリスト教会連合にとって大きな試みの年でした。第一に、牧師による盗撮事件、第二に所属する一つの教会が連合を脱会するということがあり、これらは単に一人の牧師、一つの教会という問題ではなく、今も問われ続けているのは、私たちが本当に兄弟姉妹として愛し合っているかということです。今日は、イエス様が弟子たちの足を洗われたというところから、イエス様が弟子たちに教えようとしておられることを学びたいと思います。

 ヨハネの福音書は、13章からイエス様が十字架にかかる一週間のことを記しています。そして13章から17章まで、イエス様は弟子たちに親しく交わって、彼らが地上で生きるための使命、目的、約束を語られました。そして特に、キリスト者の生きる原点がこの箇所に表わされています。共観福音書には、足を洗う記事はありません。ヨハネの福音書にだけあるのです。ヨハネの福音書と他の福音書は補完関係にあって、共観福音書は最後の晩餐について語り、ヨハネの福音書では足を洗うという記事を通し、その本質を書いています。

 まず、主が弟子の足を洗われた状況を見てまいりましょう。第一に、それは十字架の直前(1)、最後の晩餐の時でした(ルカ22:24~27)。弟子たちは、深い愛の交わりの中にありながら、自分とどちらが偉いかという醜い争いをしていました。それに対し、イエス様は愛について示されたのです。第二に、イエス様は裏切りと否認を知りながら、それに左右されることなく足を洗われました(13:36~38)。第三に、イエス様はすべての主権者であって、神の御子であることを知っていながら足を洗われました(3)。つまりイエス様は、ご自分が栄光と神聖に満ちた方であると知っておられたのに、最も低い奴隷の姿をとられたのです。第四に、それは誰もなすべきことをしない時でした。食事に招かれた時、奴隷が客の足を洗うのが客に対する愛であり、礼儀でした。ところが、弟子たちは誰もイエス様の足を洗おうとしません。弟子たちは誰が偉いかということでは競争するけれど、低くなることには競争しないのです。牧師であれ、信徒であれ、同じことが言えるのではないでしょうか。イエス様はそういう時に率先して足を洗うという役割を担って下さいました。

 次に、イエス様が弟子の足を洗われた意味は何でしょうか。第一に、それは愛を残るところなく示されたことの具体化です(1)。残るところなくとは、ご自身のなしうる極みまで、限度を尽くしてという意味です。第二に、愛は自分を奴隷の立場に置くということです(4,5)。神を愛するとは、神様の前だけでなく、人の前で自分を奴隷の立場に置くことだという、挑戦的なことをイエス様は示されたのです。神を愛するとは隣人を愛し、神の僕であるとは人の僕にもなっていくということ、それが問われるのであります。そこにキリストが語る愛があります。さらにこれは夕食を中断して行なわれました。決して暇な時ではなく、イエス様にとって重要な時でした。大切なことを捨ててでも、一人の人のために愛する愛、これを足を洗うことを通して教えられました。第三に、人と主との関係の原点を示されました(8)。これは十字架と復活の予告であります。第四に、十字架によってからだ全体はきよくされますが、日々の生活の汚れを聖めて下さる、聖化をして下さるということです(10,ヤコブ1:21,Ⅰテサ4:3)。

 最後に、主が弟子の足を洗われた目的は何でしょうか。第一に、それは信仰告白の受肉を求めているのです(13~14)。隅谷三喜男という経済学者は、日本人のキリスト教信仰の特徴は二階建てで、二階で聖書を読み、祈っている、一階は毎日の生活であり、それは別の原理で生きていると言いました。第二に、弟子たちが僕であって、遣わされた者(使徒)として生きるためです(16)。第三に、主の祝福に与るためです(17,ルカ22:29~30)。この年、僕になることに競争し、本当に遣わされた者になりたいですね。

 「わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます」(ルカ22:29)。天の父なる神様、イエス様は、僕たちの生き方の原点を、弟子たちの足を洗ってお示し下さいました。僕になって、奴隷になることに競い合うほどに本当に人に仕え、愛し、聖くするために労する、そのような者に私たちをならせて下さい。この年、お互いに兄弟姉妹として足を洗う者、僕にならせて下さい。そして私たちが本物のあなたの僕であり、遣わされた者であることを日々実現していく者とならせて下さい。(那珂湊キリスト教会 細川勝利牧師)