「いのちがけの愛」

 私は、今年4月で米寿を迎えましたが、先月ここケアハウスの聖日礼拝の中で、当番の牧師さんが「見よ、何という大きな愛」と題して説教して下さいました。毎回のようにお聞きする神の愛なのですが、その朝はいつになく心の奥深くしみこんで、部屋に戻ってからも自分のクリスチャン人生に、神様の愛が深く関わっていることを思いめぐらしていました。そして気がついたことは、私の人生の二大転機に、キリストの十字架のメッセ-ジをお聴きしたということです。それは、とりもなおさず神様の愛に触れた時でもありました。今日は、その二大経験をお話します。

 (1)1950年、教会に通いだして間もない24歳の秋、東京大田区のドイツ人宣教師宅に、数人の青年が集まって洗礼準備の学びをしていました。私もその一人で、老宣教師の語るキリストの十字架の真意の説明に耳を傾けました。先生は聖書を引用しながら、私たち神を無視する罪を持った人間に代わって、十字架刑を受けて下さったイエス・キリストのことを、独特の日本語でゆっくりと話して下さいました。参加者のほとんど全員が神への不信仰の罪、有形無形の罪を自覚して、感謝の祈りをささげました。この時こそ若者たちにとって、新しい誕生、神の子としての自覚の時となったのでした。

(2)それから3年ほど過ぎ、私は軽井沢で行われた夏季修養会に神様への切なる願いを抱いて参加しました。その時の講師は、信仰歴の少ない私には難しいお話をなさいましたが、ただ旧約聖書と新約聖書に一貫している罪人のための神の愛と犠牲の教理と共に、イエス・キリストの十字架刑こそ、ユダヤ人が守り抜いてきた罪人の罪を赦しきよめる犠牲の動物のささげものの集大成であると語られ、出席者に、罪人としての自覚を抱いて、神の愛への感謝をするように勧められました。

 説教の後、各自の祈りの時となり、私も皆と共に夢中で祈りました。実は私の修養会出席の動機は、私が神学校に進む人物としてふさわしいかどうかのお答えを頂きたいという願いだったのですが、神様の愛に囲まれた雰囲気の中で、新約聖書に記されているイエス・キリストのお言葉がはっきりと私個人へのお約束として祈りのうちに示されたのです。それは「祈って求めるものは何でもすでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」(マルコ11:24)でした。

 以上、二度の経験は生涯忘れることの出来ない人生転機となりました。今年も間もなくキリストの受難日、復活祭を迎えますが、私は改めて「いのちがけ」という言葉は、キリストの身代わりの死、贖いのみわざを現わす表現であって、安っぽく使ってはならないと感じている今日この頃です。
 「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。」(Ⅰヨハネ3:16)。(2014年4月12日 依田名誉牧師)