いのちとなる水の提供

今年の9月27日、私たちの那珂湊キリスト教会が建てかえられて献堂式が行われました。有史以来最多の180名の出席で、主催者の喜びもひとしおでした。宣教師の後38年間、以前の牧師館に住んでいた私にとって、立派になった建物は大きな喜びと共に、感無量の思いで式典に出席いたしました。そして旧約聖書の中にある、「神の宮の栄光が先のものよりまさる。」(ハガイ2:9)という神様のおことばが那珂湊にも実現することをお祈りいたしました。

 教会は59年の長きにわたって、人々の心にイエス・キリストの語られたいのちの水を届け続けてきました。思えば物質の水も、私たち人間にとって生きていくために欠くことのできない物です。老齢に達した私に、3人の子どもたちが事あるごとに「水分をとっていますか。」と愛の確認の言葉をかけてくれます。それは先年、脳の血行の病で妻が天に召されているためであるかもしれません。

 聖書の伝える創造者の神は、物質としての水の創造者であると共に、人が神と交流できるようにする信仰による生命力、霊の力をも授けてくださるお方です。その実例としての記録が聖書にあります。ひとりの日陰者として、寂しく生きていた婦人に、イエス・キリストはこの真理を語られ、彼女の人生をまったく新しくなさいました。その時二人が出会った井戸のそばで語られたおことばは、「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかしわたしが与える水を飲む者はだれでも決して渇くことがありません。」でした。その後、彼女はキリストを心に受け入れ、町の人々に救い主キリストを紹介したのです。この記録は、キリストの与えてくださるいのちの水による救いの実例となっています。

 イエス・キリストの与えてくださるいのちの水を飲む、すなわち人を救う神のことばを信じて神と共に生きることを、聖書では「新しく造られる」と言っています。また聖書の別の箇所では、ある夜、真理を求めてキリストを訪ねてきた一人の老教師に、キリストは「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と教えられました。

 私たち先に信じた者たちの切なる願いは、知れる限りの方々が創造の神、幸せをもたらす神と心の通い合う信仰者となってくださることです。そのために、よそおい新たとなった教会堂の集会に来て下さる方々が、増し加わることを祈り続けます。(2014年10月20日夜)

 主の園文化祭(10/17~24)では、みことば(箴言30章5節)を書いた額と、「輝」の一字を書いた額を出品しました。21日にはケアハウス19周年を祝う感謝礼拝と愛餐会がもたれ、礼拝では、私も入っているコ-ラスクラブが讃美歌を2曲発表しました。来月は、避難訓練や消火器の扱い方を習います。ここのところ風邪もひかず、元気で毎日を過ごしています。リハビリ体操も続けています。