第4回 ひたちなか市民クリスマス2014

6日、14時から16時まで、ひたちなか市那珂湊総合福祉センタ-ふれあい交流館で、第4回ひたちなか市民クリスマス2014が開催されました。
守部喜雅氏(現クリスチャン新聞編集顧問)の特別講演の他、Servants、聖歌隊による賛美、被災地復興支援の即売会、プレゼント抽選会が行われました。

 

新島八重と黒田官兵衛 ーその赦しの生涯ー

 昨年倉敷でお話をさせていただいた時、ある先生から、「八重の桜」を見ている方が教会に来るようになったと言われました。その方は全くキリスト教に関心がなかったのですが、「八重の桜」に出てきたセリフに心を打たれたのだそうです。

「八重の桜」は新島八重という女性が主人公で、会津戦争で鉄砲を持って勇敢に戦いましたが敗れ、失意の中に京都に行って第二の人生を送るというストーリーです。そして京都で、死んだと思っていた兄、山本覚馬に会いました。彼は八重に「イエスの言葉の中に、恨みや憎しみを超える新しい道があるのではないか。私はそう思ったので、八重に聖書を勉強するように勧めた」と語りました。当時、八重の人生には二つの大きな重荷がありました。一つは、生きる意味がわからない、もう一つは、どうしても赦せない人(薩摩、長州)がいるということです。

一方、覚馬はキリスト教の宣教師と出会う中で、初めて聖書に触れ、人生の意味、目的を見出していきます。彼は近代日本のために、女子教育を勧めて日本最初の女学校を創立したり、三権分立、二院制など政治体制や法律について提言し、その多くが採用されました。しかし法律にしろ、政治にしろ、それを実際に行うのは人間ではないか、それなら、人間が変わらなければ新しい日本は来ない。これは覚馬の大きな悩みでした。しかし、覚馬は聖書の真理に触れ、その喜びを「私の人生に夜明けが来た」と記しています。ここに人間を変える大きな真理があることを発見したのです。ですから、彼は八重に聖書の真理を学ばせたいと思ったわけです。

八重は驚きました。なぜなら、徳川幕府のキリシタン禁教令以来、日本ではキリスト教を信じる者は死罪にされ、人々にはキリスト教に対してアレルギ-があったからです。覚馬から聖書(マタイの福音書)を渡されて勉強を始めたものの、5章43,44節を読んだ時には強い怒りを覚えました。彼女には絶対赦せない人々がいたからです。それでも読み続け、11章28節の言葉が彼女の心を開きました。心に喜び、平安が与えられ、その体験を自分が教えていた女学校の学生に話してしまいました。その結果、女学校を解雇されましたが、彼女はこの時から新しい人生に踏み出したのです。やがて彼女は新島襄という青年と巡り会って結婚し、多くの人に愛と赦しというメッセージを語りました。

私は、NHKがなぜ新島八重のような女性を大河ドラマの主人公に選んだのか、不思議でなりません。そして今年に入って「軍師官兵衛」ですよね。黒田官兵衛という人も、No.2、No.3の人物です。しかし彼らの生き方を通して語られるメッセージは、今、私たちが必要としているのものではないかとNHKは考えているのかもしれません。私には、それが愛と赦しのメッセ-ジだと思えるのです。

黒田官兵衛は姫路に生まれ、信長、秀吉、家康に仕えました。彼のモットーは、なるべく人を殺さずに戦いに勝つということでした。○○家に忠義を果たすというのではなく、この乱世を一日でも早く終わらせなければならない、統一に最もふさわしい人に忠義を果たすという考えで生きてきました。しかし彼にも大きな悩みがありました。

私が印象に残った二つの場面を紹介しましょう。第一は、彼が堺の町に行った時の場面です。堺には外国からの船が入り、宣教師たちがいて、教会もありました。ある日、堺の町を一人で歩いていると、鐘の音が聞こえてきました。その音に惹かれるように、しもたや風の家に入って行くと、人々が集まっていて、宣教師(ルイス・フロイス)が話をし、横で日本人が通訳をしていました。その宣教師は、キリスト教には三つの大切な教えがあります、第一にデウス(神)を信じて下さいと言いました。日本には八百万の神がいたので、区別するためにあえてデウスという言葉を使ったのです。第二に、救いを求めて下さいと言いました。即ち、私たち人間は救われなければならない存在だということです。第三に、お互いのお大切という言葉を使いました。隣人を愛しましょうということです。それを聞いていた官兵衛の目から、一筋の涙が落ちました。当時、姫路では豪族たちが覇権を争い、そのうちの浦上家と小寺家が提携を結ぶため、官兵衛の初恋の人おたつが、小寺家の養女として浦上家の若殿にもらわれていくことになりました(ここはドラマの話です)。ところが祝言の日に赤松家に襲われ、若い二人は殺されてしまいました。官兵衛は怒り狂い、復讐心に燃えました。これが第二の場面です。このような官兵衛に、キリストの言葉が触れ、涙となったのだと思います。彼自身は38歳の時に洗礼を受けますが、黒田官兵衛がキリシタンであったという記録は、日本側には全くありません。ただ一つ痕跡として、福岡県朝倉市にある円清寺に掛け軸があって、そこに略歴が記されているのですが、削られている部分があり、それは「南蛮宗に入信」という言葉だそうです。即ち、彼がキリスト教に入信したというところが削られているのです。しかし彼と一緒に働き、伝道したポルトガルの宣教師たちが記録を残して本国に持ち帰りました。そして禁教令が解けた時、新しいカトリックの宣教師たちによってそれが日本に入ってきました。ルイス・フロイスの書いた日本史は約50年前日本語に訳され、私たちはそれを読むことができます。それによれば多くの大名、貴人が洗礼を受け、自分の生活を変えたそうです。高山右近や官兵衛がその例であります。

ところが、官兵衛に苦難がやってきました。キリシタンに対して好意的だった秀吉がバテレン追放令を出したため、高山右近は追放され、官兵衛も表向きに伝道をしなくなりました。歴史家の中には、官兵衛は棄教したのだと言う人もいます。しかし、事実はそうではありません。福岡県博多にある教会の神父たちが記録を残しています。官兵衛は伏見で59年の生涯を閉じますが、二つの遺言を残していました。死ぬ時には罪の告白をしたいから神父を呼んでほしい、そして遺体を博多の教会に運んで、キリスト教式の葬儀を営んでほしいということでした。息子の長政はその遺言を守って、船で三日かけて遺体を伏見から博多まで運んだそうです。葬儀を司式した神父の記録には、「1604年、慶長9年の初めに、如水は京都(伏見)において死亡した。すでに健康が思わしくなく、彼は治療のためにそこに行っていたのである。そして臨終の際、彼は告解するために神父を呼ぶように言ったが、彼の側近はなぜかと言って神父を呼ばなかったので、如水は死ぬ前に告解することができなかった。しかし彼は自分のアニュス・デイとロザリオを持ってくるように願い、自分はキリシタンとして死にたいと言いながら、それを胸の上に置いた。…(略)」。アニュス・デイとは「神の子羊」という祈祷書です。私はここに官兵衛の信仰の生涯が象徴されていると思います。神の子羊、それは私たちの罪を救うために神が送ってくださったひとり子であり、そのひとり子が十字架にかかることを通して、すべての罪を贖うことを通して、神は私たちに自由を与え、永遠のいのちを与えられるという約束をして下さった、これがキリスト教の救いの内容です。官兵衛は最後の最後において、まさに神の子羊、イエス・キリストにすべてをかけたのです。

私たちは今、混迷する時代に生かされています。人間関係において、多くの重荷があります。しかし新島八重にしても、黒田官兵衛にしても、神に愛され、神に赦された人物でした。そしてそのことを人々に告げ知らせました。私たちは、私たちに一番必要な愛と赦しというメッセージを聞き、今日クリスマスを祝う中で、このキリストとは私にとってどういう意味があるのかと考えてみる必要があるのではないかと思います。

天のお父様、感謝いたします。今日も私たちにいのちを与えて下さったことをありがとうございます。今日はイエス・キリストの降誕を祝う時を持たしていただいていますが、私たちは日ごろの生活の中で、いつのまにかこの方のことを忘れて生活していることを思います。黒田官兵衛は最後に、神の子羊なるキリストの祈りの本を胸に亡くなっていたということを聞きました。主よ、私たちもこのお方こそ救い主であり、神であり、すべてのすべてであるという思いをもって、それぞれに与えられた人生を歩むことができるように導いて下さい。どうか主よ、心からクリスマスを感謝し、ほめたたえることができますように。キリストの誕生が私たちにとって救いであり、恵みであり、希望であることを人々に伝えることができますように導いて下さい。今日、ここに集われたお一人お一人に、神様の豊かなる恵みがありますように。