赦す心

 イエス・キリストの一番弟子といえるペテロが、ある時質問しました。
「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」

 私たち人間は、とかく他人の言動にふり廻されたり、不機嫌になったりし易いものです。時には腹を立てたり、復讐を考えたりするのです。ペテロの質問は、そのような心から出たものと言えます。

 この質問に答えてイエス・キリストは、自分が法外な借金を赦されたのに、友人に貸したほんの僅かな借金を赦さないで、その友人を牢に投げ入れた人の話をなさいました。

 当時の学者は、赦しは三度までと教えていたので、ペテロは自分の寛大さを示すつもりで、「七度まででしょうか。」とも尋ねています。この発言は、七度まで赦したら八度目は赦さなくてもよいということでしょうか。ペテロの場合、何とか自分の感情を抑えて赦そうという気持ちが見えます。赦す努力をしようという態度です。しかし何度赦せばという考え方は、本当に他の人を赦そうという姿勢なのでしょうか。実は、心の底では決して赦していないのです。

 新約聖書では、こんな心の姿を「苦い根」を宿すと表現しています。赦しは赦す回数では決して決まりません。赦すとは、自分に直接及ぼされる迷惑なこと、不都合、損害、罪などがあったのに、それを無かったことにすることです。

 イエス様は前述の譬によって、本当の赦しの精神を説明されました。その中で、人間はどこまでも自己中心で赦しの精神に欠けている罪人であることを教えておられます。また作家の三浦綾子さんは講演の中で、「人間には、本当は赦す精神はない。赦す心をお持ちなのは、真の愛によって人の罪のために十字架にかかられたイエス・キリストだけです。」と言い切られました。

 赦しの本質は、自分では償い切れない罪がイエス・キリストの十字架刑によって至福の愛が示されたことに原点があるのです。

 「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです(ローマ4:25)。」-今年のイースターに示された聖句-

☆ ケアハウスで四月生まれは私の他に牧師が一人、計二名と少ないのですが、誕生会の席では、二人で聖歌680「畑の中の細い道」を歌いました。その相棒がペープサートを使って、教会学校のように説明をしてくれたので、大方の評判もよく、担当職員からも感謝されました。クラブ活動の中では、聖書輪読会と習字に力を入れています。また、中止になった膀胱結石の手術は、今のところ無事ですのでご休心下さい。
 メンバーの皆様の上に、主の祝福を祈ります。(2016年4月17日 依田次雄名誉牧師)