いっしょに歌おう 第57回

「春が来た」、「365日の紙飛行機」、「花の街」、「遠き国や」(福音讃美歌436番)、「故郷」を歌いました。参加者は14名でした。

 ドラマ「あさが来た」のヒロインあさのモデルになった広岡朝子さんは、嘉永2年(1849年)江戸時代の三大財閥の一つ、三井家に生まれました。彼女は幼少の頃から裁縫、茶の湯、生け花、琴を習いましたが、一番したいと思っていたことは学問でした。自伝の中で、「当時の女子は幼い時は父母に従い、嫁げば夫に従い、老いては子に従うという教えを理想として教育されていましたから、学問よりも一家を持って必要な裁縫、人に仕える礼儀、夫、老人を楽しませる遊芸を仕込むことを主要なこととされておりました。私もその例にもれず、日々裁縫茶の湯、生け花、琴のお稽古などを強いられました。」と記しています。学問がしたいのに誰にもわかってもらえないし、女性らしいことを強いられてしまう、そういう気持ちが彼女を誰にも甘えない人間にしていきました。

 その後、17歳で両替商を営む家に嫁ぎましたが、明治の初めに「銀目停止」という法令が出され、家は廃業寸前に追い込まれました。そして、ここから朝子さんの奮闘劇が始まります。炭鉱ビジネス、生命保険事業など、次々と新しいことをやって成功させていきます。男尊女卑が当たり前の社会で、彼女は家をたて直していったのです。

 さて、そんな朝子さんにキリスト教を伝えた、成瀬仁蔵という人がいました。彼は女子大学校をつくる時、その働きを先導し、創設に必要な30万円(今の60億円)を集めるため奔走しました。無理が重なり病になり、妻も亡くした彼に、朝子さんは深く同情しました。しかし、神様を信じていた成瀬さんは、「試練も幸福も神様から来ます。幸福ばかりでは、人の心は堕落します。幸福と辛さを双方知って、人の心は清らかな高みにたどりつくのです。」と話したそうです。それを聞いた朝子さんは、何と厳しい神様だろうと思いました。でも同時に、この神様がやさしい方、甘えていい方だと気が付きました。自伝には「しかし私には、他人と違って甘えた経験がありません。父も母も、夫までも私が甘えるどころか、皆私を頼りにしておったのであります。それ故今、神の前に甘えて願いを述べよということは、私にはふさわしくないことでありました。」とあります。しかし彼女は徐々に神様が厳しい方であると同時に、やさしい方であることに気付いていきました。誰にも甘えないで生きてきたその人生には、どこか孤独感あったと振り返っています。神様は彼女を真実の愛で包み込み、その孤独感から解放したのです。

 聖書には、神様は父親のような存在だと書かれています。良い父は、時に子どもに厳しいものです。それは子どもを愛しているからこそではないでしょうか。聖書には厳しい言葉もたくさん出てきますが、それは正しいことです。私たちのために言っていることです。だから私は、聖書の言葉は本物だと思っています。しかし同時に、聖書の神様は私たちに頼って来なさい、甘えなさいと言って下さる方です。
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(Ⅰペテ5:7)」

 天の父なる神様、今日の歌う会をありがとうございました。一緒に歌って本当に楽しい時間を過ごせました。神様、ここにいる一人一人をあなたが祝福して下さい。(武田遣嗣牧師)