2017年新年聖会(2017.01.09)

 

 創世記127

 

 今年は「御言葉に立つ一年」というテーマが掲げられ、いろいろ思い巡らしているうちに、「御言葉に立つ人間観」ということに思い至りました。

 

創世記127には、人間がどのようなものであるかが、特徴的に描かれていると思います。第一に、人間は神に創造されたもの(被造物)だということです。この人間の被造性は、決定的に人間が神に依存していることを示しています。つまり、人間は神によってつくられ、生かされているということです。第二に、神のかたちとしてつくられたということです。人間だけが神のかたちを持ち、神に似せてつくられています。これはよく考えるとすごいことです。私たちのどこに、神と似ているところがあるのでしょう。たとえば高度な言語を使う、宗教を持っている、意思、判断する力を持っていると言う人がいます。確かに私たちは言いなりのロボットではなく、自分で良いものを選ぶことができます。近年は、この選択が軽んじられているように思えます。自分で考えない、決めない、責任を負わない、いつも誰かに判断してもらい、誰かのせいにしている。しかし人間は自立した存在として、自分の人生を生きていくことができるのです。より良いものを選んで神に喜ばれる、失敗の責任を受けとめて悔い改める、どうしたら神に喜ばれるかを考えていく、人間は自分で人生を歩むからこそ、豊かで輝いたものになります。人間は神によってつくられた被造物です。人間は神の前にへりくだり、謙虚にならなければなりません。また神を恐れなければなりません。同時に、人間は神のかたちを持つものです。よく考え判断し、自分の責任で様々なことにチャレンジしたいものです。

 

では、神のかたちとはどういうものでしょうか。それは、神がどのような方であるかということと、密接につながっています。ある学者は神の性質を三つの分野に整理しました。第一は聖さです。人間は神の聖さに与るべく存在しています(レビ192、Ⅰテサ43~8)。第二は真実(誠実)さです(エレ101~10)。主は真の神であり、神の真実は偽ることがありません。私たちも誤魔化したり、嘘を言ったり、騙したりしてはなりません。そして神の真実は信頼できるものです。語ったことを果たされます。私たちも信頼される生き方をしたいものです(ヤコブ512)。第三は愛です。神の愛は慈愛、恵む愛、憐みの愛です。また神の愛は忍耐でもあります。神は怒るに遅く、寛容な方です。そしてこのような神のかたちを現すことが、人間の使命なのです。

 

今回は、三つの分野のうち「神は愛である」ということに注目したいと思います。私たちは、「愛」というテーマが聖書の中で最も中心的であることを、幾つかの箇所から知ることができます(Ⅰコリ1313、マルコ1228~31)。もしこれらの御言葉を受けとめ、御言葉に立って人間を考えるなら、私たちが愛に生きることが神のかたちを現していることだと言えます。

 

愛に生きる人間は、確かに素晴らしい、でもできるわけがありません。だからイエス様を見上げます。イエス・キリストは人となって、神のかたちの生きざまを見せて下さいました。たとえば、キリストはザアカイの利益をはかられました(ルカ195~69~10)。相手(犯罪人)の値打ちによらないで接し、愛されました(ルカ2339~43)。憐み深く(マタイ82~3936~38)、忍耐のお方でした(ヨハネ131~5)。主イエスは神の御子でした。しかし、完全な人間でした。主イエスは神のかたちを持つ人間となられて、神の愛を現しました。主イエスを見上げ、主イエスに見習うなら、私たちも愛することができるようになります。そしてイエスの弟子であることがわかります。これこそが、神のかたちなのです。イエス・キリストを見るならば、神の愛がわかります。そして私たちはキリストのうちにある神の愛を見て、私たちのうちにある神の愛のかたちが新しく生き始めているのを感じないでしょうか。相手のためを思い、相手がどんな人であっても与え、かわいそうに思って寄り添い、自分が不利になっても忍耐する、そのような神の愛が生き、活動し、育ち始めています。私たちは愛することができるようになっていくのです。それは、私たちが神のかたちにつくられているからです。

 

 今年一年、神の愛の創造のみわざが、お一人お一人の上に実現しますように。

 

天地万物をおつくりになった父なる神様、あなたがおつくりになった私たち一人一人の神の愛のかたちが生き、育ち、現れ、神の栄光となりますように。(2017年新年聖会午前  水戸下市教会 渡部和彦牧師)

 

 

 

詩篇119105

  

 午後は、聖書信仰はどうあるべきかについて、ご一緒に考えてまいりましょう。

 

聖書信仰を強く保持している教会はどこでも栄え、クリスチャンたちが生き生きとして、家庭が祝福され守られています。私は1976年からアメリカ、ペンシルバニア州の神学校で学びましたが、3年生の時、ある会社の社長さんのクリスマス・ディナーに招かれたことがあります。その方にクリスチャン家系の歴史をたずねたところ、宗教改革(1500年代)からですという答えをいただきました。これは聖書信仰に生きる家庭がいかに祝福されているかを物語っています。一方、自由主義神学の影響が濃い地域では、人々は教会生活を守らなくなり、信仰継承もされなくなり、その結果、社会不安が増大し、キリスト教の伝統が崩れてきています。

  

現在、聖書信仰は二つの面で危機に陥っています。一つは理論的に、即ち聖書信仰の神学が崩れかけています。もう一つは、そこから出てくる実践生活(クリスチャン生活)が崩壊してきているということです。このような中で、私は聖書信仰、とりわけ聖書の無誤性をしっかり持つことが大事だと確信をしております。

  

まず、聖書の無誤性について、聖書が証言をしています。Ⅱテモ315~17にある「霊感」(セオプニュートス、神の霊を吹き込まれた)は、書かれた言葉の質を意味します。神の行為に起源を持つこと、真の意味で神の創造であること、この神的起源のゆえに高い聖書観が打ち立てられています。また、Ⅱペテ119~21では、聖書の権威の基礎がどこにあるのか(神か人間か)を問うています。さらに聖書の無誤性に関して、福音派指導者により「シカゴ声明」が出されました。

  

反面、聖書の無誤性を批判する説もあります。第一は、パウロ神学の新視点と呼ばれているものです。これは米国の学者E.P.サンダースが1970年代に発表した学説で、パウロはユダヤ教の延長であり、その信仰義認は誤りである、単純に言えば救いは律法を守ることにより達成できるという説です。しかし、これはローマ3~4章と明らかに矛盾しています。第二は、N.T.ライトの主張する「神の物語」神学です。物語であるという点において、聖書のことばの最終決定性はないし、そこから教理を引き出すことはできません。第三に、聖書の現象説というものです。これは、聖書は一見誤っているように見えるという説です。旧約聖書では、たとえばモーセ五書はJEDP文書資料がミックスされてできたもので、モーセが書いたものではないとします。イザヤ書の統一性を否定する説もあります。イザヤ書を使われている言語、内容によって三つに分解し、複数の作者を主張します。しかしイザヤの預言活動は50年以上に及び、時代に応じ内容や表現が変わるのは当然あり得ることです。また、「クロス(451)」という名を後代の挿入としますが、これは神の超時代性を否定するものです。ヨナ書の歴史性を否定する説もあります。イソップ寓話と同じ種類と考え、その歴史性を疑問視するのです。しかしⅡ列1425で、預言者ヨナの実在が証言されています。さらに新約聖書では、福音書の相違を指摘したり(→作者の視点が異なる)、言語の違いからエペソ書のパウロの著作性を疑問視する説があります(→エペ11)。

  

神は異なった人格的資質を持った著者を用いられ、ご自身のことを啓示されました。そして聖書の言葉は著者の思想であるだけでなく、すべてが神の言葉であります。この世に調子を合わせるより、神の言葉に聞き従う教会でありたいと思います。

  

父なる神様、あるべき聖書信仰とは、ということで学びました。聖書が持っている豊かな内容、力、いのち、それらを大切にして、そして教会によってそれらが生かされ、語られ、実践されていくことができるように、そして私たちが証しに励み、宣教に励む教会生活、個人生活を送ることができるように、心からお願い申し上げます。今年一年、御言葉と共に歩む生活であらせて下さい。一つ一つの教会を、あなたが祝福して下さいますように。(2017年新年聖会午後  八郷キリスト教会 山口勝政牧師)

 

☆ 2017年新年聖会は、八郷キリスト教会で行われました。