いっしょに歌おう 第67回

「静かな湖畔」、「どこかで春が」、「ふじの山」、「幸せなら手をたたこう」、「うたいつつあゆまん」(福音讃美歌402番)、「ふるさと」を歌いました。参加者は9名でした。

 

 

 私は小学生の頃、水戸黄門が大好きでした。旅行先で土産物の印籠を買ってもらって、弟と水戸黄門ごっこをしていた時期があります。しかし暫くすると、水戸黄門に対して疑問が湧いてきました。あの印籠をもっと早く出せば、もっと早く事件が解決するんじゃないの?と思ったのです。そんな疑問を母にぶつけたら、そんなことをしたら時代劇が早く終わってしまうでしょ、と言われた記憶があります。

 

このように子どもの頃は、水戸黄門がすぐ印籠を出さないことにヤキモキしていたのですが、今は考えが少し変わりました。ぎりぎりまで印籠を出さない光圀公を、すばらしいと思うようになったのです。光圀は印籠を出したまま街を闊歩して、自分の偉さを見せびらかす人ではありませんでした。できるだけ庶民と同じように旅を続けようとする、そんな謙遜な姿がすばらしいと思うようになったのです。

 

「なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」(ルカ1814)。

 

自分を高くするとは、偉そうにするとか、他の人を下に見ることです。そういう人は、神様に低くされると書いてあります。反対に自分を低くする者とは、人を差別しないで等しく愛する人のことです。そういう人は、神様に高くされると書いてあります。光圀の歩みも謙遜と言えるかもしれませんが、聖書が最も謙遜だと考えているのはイエス様です。イエス様の謙遜な歩みは、光圀のように印籠を出せば悪者が言うことを聞く、そんなかっこいい歩みではありません。イエス様は暴力と暴言を受け、陰湿な罠をしかける敵がたくさんいたのに、やりかえさず彼らを愛し、最後に十字架にかけられてしまいました。しかしイエス様は神様の御力によって復活し、今も天国で私たちを見守って下さっています。

 

私たちは誰かに高慢な態度をされると、いらいらします。こういう人にいらいらさせられるなら、自分も謙遜に生きるより、高慢に生きた方がましだと思うようになります。しかし自分で偉くなるのではなく、神様によって高くされたイエス様の生き方を見る時、自分で自分を偉くする必要はない、高慢になる必要はないということがわかります。

 

天の父なる神様、ここにいる一人一人がイエス様のような謙遜を持って、人生を歩み切ることができるようにして下さい。(武田遣嗣牧師)