空の鳥を見よ

 

 今年のイースター(キリストの復活祭)を迎えて、私の入居している老人ホーム主の園の復活記念礼拝では、入居者が四部合唱を発表、「空の鳥を見よ」という主題の讃美歌が力強く歌われました。男性部は5人でしたが、「よく合っていた」と言われ、好評でした。そこで私は、以前北海道の友人が送ってくれた、可愛らしい小鳥が写っている絵はがきをドアの外に下げることにしました。はがきに聖書のことばを書き入れるか否かで迷いましたが、今回は絵だけにしました。入居者の感想が楽しみです。

  

 この言葉は、新約聖書に載っているイエス・キリストの説教の中の一部なのです。生きることの厳しさに明け暮れる人間にとって、このことばはいかにも呑気すぎるのではないでしょうか。

  

 若しキリストが苦労知らずのお坊ちゃんであれば、こんな批判も出ることでしょう。しかしこの方は、貧乏のつらさ、生きる悩みをつぶさに経験され、また人類の父であられる創造者が人々のいのちを守り、養って下さる方であることを説きあかしておられます。またキリストのことばから大きな励ましを受け、霊感を与えられる人さえも起こされております。

  

 雀のような小さい鳥は貧しいと言えなくもありませんが、不思議なことに「小鳥は貧しい」と言う考えを持つ人はいません。それは、小鳥が貧しさの中で貧しさを憂えたり、悲しんだりしないからなのでしょう。

  

 私たちも貧しさや困難の中にあっても、小鳥たちのように、それらに押しつぶされるような悩み、憂いから解放されている時、「貧しくてもゆたかである」と言えるのです。

  

 イエス・キリストは、苦難の十字架の前夜、弟子たちに向かって「あなた方は心を騒がしてはいけません。神を信じ、またわたしを信じなさい」と仰せられました。神を信じている者は、お約束どおりすべてについて神が配慮し、必要なものを備えていて下さると信じて、思い煩う(心がバラバラになる)ことがないのです。

  

 平和とか幸福は、物質の保証だけによってもたらされるのではなく、人格的なものと結びついています。また環境だけによるものでもありません。なぜなら、同じような環境にありながら、ひとりは感謝の日を送り、他の人は死ぬ思いで悩み苦しむといった例もたくさんあるからです。

 

 「主に拠り頼む者は幸いである。」(箴言1620)。