遠方より信友来る(旭川緑ヶ丘便り21)

 

 約一ヶ月程前、病院の関係で那珂湊に滞在していた時、旭川の友人から電話があった。小生に是非会いたいと言う方がいるとのことであった。それで旭川に戻って一週間後に会うことになった。実際に525日(木)に、旧友に送ってもらって我が家で会った。

 

 我が家で会ったのは渡邉賢治さんである。1,975年以来、つまり43年ぶりである。渡邉さんの顔を見た瞬間、忘れていた当時の顔を思い出した。目の前に現れたのは、43年前の渡邉さんではないが、確かに渡邉さんである。渡邉さんも小生を見た瞬間、小生が以前とは大きく変わり、すぐには「細川」とは認識できず戸惑ったような顔になった。が、すぐに分かりホッとしたような顔になった。これが43年振りに会った時の様子である。

 

 実は、43年前、渡邉さんと小生は非常に親しく交わった関係ではなかったので、会った瞬間、互いに戸惑ったのかもしれない。勿論、互いに関係が悪かったのではない。逆である。小生からすれば渡邉さんはあこがれのキリスト者であった。「聖徒」と呼ばれるに相応しいキリスト者に見えた。・それに対して小生は自他共に認める不良キリスト者であった。だから小生にとっては憧れであり、恐れ多くて気楽に声を掛けられる存在ではなかったのである。当時の渡邉さんは、卓球で世界選手権代表になるようなところ、肩を痛め卓球を捨て、福音宣教に身を投じたことが知られていた。丁度、日本と中国の関係に卓球が用いられ「ピンポン外交」と言われたこともあり、「ピンポン伝道」が云々されたように思う。

 

 そんな憧れの渡邉さんが、不良の小生を覚えておられ会いたいと声をかけてくれたことが不思議であった。実際に会って、その理由を聞くことなくあっという間に3時間半が過ぎてしまった。

 

 渡邉さんは43年前と同じようにあこがれのキリスト者であった。

 

 渡邉さんは、43年間の歩みを手短に話して下さり、現在しておられることを教えて下さった。神学校を卒業後、愛知県豊川での開拓伝道、タイ宣教師、米国での学びと日本人伝道、愛知県豊川で牧師、国内外の巡回伝道、とこれまでの働きを簡潔に話して下さった。現在は同盟福音教団教職であり名刺には「福音の賢・渡邉賢治」と記されていた。

 

 渡邉さんはハーモニカ、筆と墨、卓球、折り紙等を用いて老人にも若者にもいつでも福音を語っておられる。ある所では数百名の子どもたちに折り紙を用いて飛行機を飛ばすことをしながら福音を語ったこともあると言う。我が家でも、渡邉さんは小生夫婦に紙飛行機の折り方を教えて下さり、それを飛ばしたのである。すると愚妻も小生も夢中になってしまった。こうして渡邉さんはいろいろなものを用いて「誰にでも出来る伝道」と言われるのである。

 

 しかし、これは渡邉さんだから出来ることであると思った。やはり、43年経って、互いに70歳を過ぎた老人になっても渡邉さんは若々しく、何でもできる憧れの人だった。

 

 43年前は、あまり知らず憧れていたが、こうして会って「43年振り」と言うより「初めて」会い、知って、本当に憧れるようになった。主にある友のすばらしい再会であり、出会いであった。信仰の友「信友」とは何とすばらしいことだろうか。いつも、何もしないでゴロゴロしているだけの小生にも、憧れの渡邉さんのように、小生なりに少しでも主に役立つ歩みをしたいという思いが起こされたのである。詩篇133篇を思い出した。

 

 

 

見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、何という幸せ、何という楽しさであろう。

 

それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れて

 

その衣のえりにまで流れしたたる。

 

それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。

 

主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。