復活の非常な喜び ルカの福音書24章36~58節

24:36これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真中に立たれた。 37彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。 38すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。 39わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」 40,41それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか。」と言われた。 42それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、43イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。

44さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」 45そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、 46こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、 47その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。 48あなたがたは、これらのことの証人です。 49さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」
50それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。 51そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。 52彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、 53いつも宮にいて神をほめたたえていた。 (ルカ24:36~53)

 

 霊(37)には、聖霊と同じ言葉が使われています。つまり、ここでの弟子たちの驚きや恐れは、ホラー映画に出てくるような幽霊を見た恐れではなく、神様を間近に見たことによる恐れです。この時点で弟子たちは、目の前に立っておられる方がイエス様だと気づくことができませんでした。なぜなら、弟子たちにとってイエス様とは、生活を共にした人間としてのイエス様だったからです。そんな弟子たちに対し、イエス様はご自身の身体が確かに人間の身体であることを示されました(38~43)。

 

 イエス様は真の神様であって、真の人間である(二性一人格)、これは聖書が教えていることです。もしイエス様が神様ではなくて、ただの人なら、イエス様の十字架は私たちを救うことはできません。罪のない神様が身代わりにならなければ、私たちに救いはありません。またイエス様が人間ではなくて、ただ神様であっても、イエス様の十字架は私たちを救うことはできません。もしイエス様が人間でなければ、十字架の痛みや苦しみはなかったと思います。イエス様が人間となり、人間として苦しみ、痛みながら十字架にかけられたから、私たちの罪の犠牲となり得たのです。そして人間としてのイエス様が復活されたから、私たちも天の御国で復活できる希望があるのではないでしょうか。さらに、イエス様は今も真の神様であり、真の人間であります。天に昇られた今も、人としての性質を持っておられるからこそ、私たちを慰め、私たちに共感することができます。しかも共感で終わることなく、神様ですから、大いなる力によって私たちを助けることができる方なのです。43節までで聖書が伝えたいことは、イエス様が真の神様であって、また真の人間として復活されたということです。

 

 さて弟子たちは、イエス様が罪から彼らを救って下さったということを理解しました(46)。彼らはこれまで、イエス様の救いをローマの支配からの解放と考えていたと思います。イエス様が十字架にかかった時、十二弟子は逃げ、ペテロはイエス様を知らないと言い、女性たちはイエス様の十字架を遠くから見ることしかできませんでした。このような体験から、彼らは自らの心に罪があることを知りました。そしてイエス様は彼らの心を開き、彼らは初めて、イエス様が自分たちの罪のために十字架にかかり、復活されたことを悟りました。自分の悪い部分を理解するということ、それは弟子たちを落ち込ませたり、暗くすることはありませんでした。それは、イエス様が復活して自分の罪の身代わりに死んでくださったことを理解したからです。

 

 弟子たちはイエス様の十字架と復活を理解して、イエス様の祝福を受けました。その時、弟子たちは非常な喜びを抱いて、神様をほめたたえたそうです。ルカの福音書は宮で始まり、宮で終わっています。ザカリヤが宮で祈っているところから、1章が始まります。ザカリヤは持ち回りの当番で礼拝をささげ、御言葉を信じないために一時口がきけなくなりました。しかし2453節では、宮での礼拝は神様から命じられてもいないのに、積極的に行われ、非常な喜びがありました。これがイエス様の十字架と復活の力です。私たちは、イエス様の十字架と復活の力を受け入れましょう。そして十字架と復活以後を生きる者として、弟子たちのように非常な喜びを抱いて、神様を礼拝したいと思います。私たちを唯一、根本から変えることができる十字架と復活の救いを受け取って、生きていく決断を改めてしましょう。

 

 天の父なる神様、イエス様が人間になって下さった、神様の在り方を捨てられないとは考えないで、ご自身を無にしてへりくだって下さったおかげで、今私たちはイエス様をこのように近くで礼拝することができます。あなたは罪に打ち勝って、復活して下さいました。私たちを罪から救って下さいました。この十字架と復活が弟子たちを根本的に変えたように、私たちの心も信仰も、根本的に変えて下さい。ここまで、ルカの福音書の説教を導き、あなたが語って下さったことを感謝します(201841日イースター及び召天者記念礼拝 武田遣嗣牧師)

 

☆墓前礼拝を行いました。