愛の神様に導かれる人生 ローマ人への手紙8章28節

 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)

 

 今日の御言葉が言いたいことは、神を愛する者の人生は必ず益となる、ということです。「益」とは英語の聖書だとgoodです。神を愛する者には、辛い経験さえもgoodな結果となっていきます。ですから、その人生の最後は必ずすばらしいものなのです。

 

 しかし私たちは、神を愛する者の生き方がなかなかできません。なぜでしょうか。

 

まず、この世界には神様がおられます。神様はお一人しかおられません。この神様が人をつくられました。ですから、私たちはアメーバから偶然、進化したわけではありません。私たち一人一人は神様に愛されて、あの三本の木のように人生の目的が与えられてつくられたのです。しかし、人は神様を無視するようになりました。心理学の世界では、好きの反対は嫌いではなく、無関心だと言われているそうです。人は日常生活の中で、神様のことを全く考えなくなりました。そして神様と人との間に隔たりが生まれました。これが罪です。この罪によって、私たちは神様を愛することができなくなりました。人間本来の生き方は神様を愛し、人を愛することです。しかし罪によって、人間は自分を第一として生きるようになりました。ただし、自己中心の心の中には本当の幸せはありません。神を愛そう、人を愛そうとするところに、私たちの本当の幸せがあるのです。けれども私たちの心に罪があるうちは、神様を愛することはできません。そこでイエス様は、私たちの罪の身代わりとなって、十字架にかかって下さいました。私たちはイエス様を信じることで、この十字架の架け橋を渡って、神様と再び愛の関係に生きることができます。私たちは、自分の内にある罪をそのままにしてはいけません。罪の中に長い間いると、罪に心が麻痺してきます。あの人もやっているから、長い間やっているからいいや、と色々な理由をつけて自分の罪を正当化します。しかしその先は地獄です。神様が私たちを地獄に落とすことはありません。私たちは自分自身で罪の道を選び、地獄に進んで行くのです。私たちは愛の道を行くか、罪に留まるか、二者択一です。イエス様を信じずに、愛する者になれないのか、と思われる方もおられるかもしれません。しかし私たちには元々、愛がありません。私たちはこの十字架の架け橋を渡って、神様の愛をいただきに行かなければなりません。自分を罵倒する人のために十字架で死んだ、あの神様の愛をいただかなければ、私たちは真に愛することはできません。この十字架の架け橋はすでにかけられています。イエス様からは、すでに救いの手が差し伸べられています。ぜひ今日、イエス様が私の罪のために十字架にかかって下さったことを信じます、と告白しましょう。そして神様から愛をいただいて、愛する者になっていきましょう。

 

 ここでTさんの証を紹介します。彼女は二年半前に教会に来ました。当時、一人で家にいることが困難で、教会のメンバーが週三回、交代で彼女の家を訪ねました。訪問は今も続けられ、本人は少しだけ良くなったと言っています。最近、彼女は「受けるよりも与える方が幸いである」、という御言葉をよく口にするようになりました。彼女は、去年までは「(家族との平和、お金など)がない」とよく話していましたが、彼女を無償で支えようとする教会の人々の姿を見て、またイエス様の御言葉を聞いて、与えられるよりも与える方が幸せなのかもしれない、と気づいたそうです。聖書の神様は、私たちの内側を変革する力があります。受ける者は、与える者となっていきます。愛されたいとしか願わなかった者が、愛する者へと変えられていきます。そして愛する者の人生を、神様はすべて益として下さる、と聖書にはっきりと書かれています。

 

 私たちを愛して下さっている天の父なる神様、私たちは愛される人格や能力を持っていないかもしれません。しかし神様から見ると、私たちは非常に良くできた作品であり、価値があります。イエス様、こんな私たちのために十字架にかかって、罪をゆるして下さってありがとうございます。改めてイエス様の十字架を信じます。そして罪ゆるされた者として、与えられるよりも与える者となることができますように、愛されるよりも愛する者となっていくことができますように。(2018624日礼拝 武田遣嗣牧師)