なにより伝えたい神の御言葉 使徒の働き5章12~5節

5:12また、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行なわれた。みなは一つ心になってソロモンの廊にいた。 5:13ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。 5:14そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった。 5:15ついに、人々は病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどになった。 5:16また、エルサレムの付近の町々から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた。

5:17そこで、大祭司とその仲間たち全部、すなわちサドカイ派の者はみな、ねたみに燃えて立ち上がり、 5:18使徒たちを捕え、留置場に入れた。 5:19ところが、夜、主の使いが牢の戸を開き、彼らを連れ出し、 5:20「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい。」と言った。 5:21彼らはこれを聞くと、夜明けごろ宮にはいって教え始めた。一方、大祭司とその仲間たちは集まって来て、議会とイスラエル人のすべての長老を召集し、使徒たちを引き出して来させるために、人を獄舎にやった。 5:22ところが役人たちが行ってみると、牢の中には彼らがいなかったので、引き返してこう報告した。 5:23「獄舎は完全にしまっており、番人たちが戸口に立っていましたが、あけてみると、中にはだれもおりませんでした。」 5:24宮の守衛長や祭司長たちは、このことばを聞いて、いったいこれはどうなって行くのかと、使徒たちのことで当惑した。 5:25そこへ、ある人がやって来て、「大変です。あなたがたが牢に入れた人たちが、宮の中に立って、人々を教えています。」と告げた。(使徒5:12~25)

 

まず、アナニヤ、サッピラ事件後の教会の様子について(1216)見ていきましょう。二人は持っていた土地を売って、その全額をささげると約束しましたが、実は一部を懐に入れていました。彼らは神様を欺いたことで命を取られ、教会全体が神様への恐れに包まれました。その結果、ノンクリスチャンが二つの種類に分かれたことがわかります(13,14)。一つは、人が死ぬような所には行きたくない、交わりには加わりたくないという人たち、もう一つは、神様を欺こうとした人が死んだのだから、そこには真実の神様がおられる、と思って教会に集うようになった人たちです。つまり真のクリスチャンが集っていったのです。

 

 また事件後、使徒たちの奇蹟がより顕著になりました(1516)。神様の力によって病人が癒されるということは、現在でもあり得ることです。しかし今後、ペテロのような人が現れて、人の病を癒していくようなことは、考えにくいと思います。私たちは、この時代の神様の計画があった、またこの時代は使徒たちしか神様の奇蹟を行っていなかった、ということを心に留めておいてよいと思います。しかし簡単に病が癒されることがないにしても、神様を恐れる人々の間で、神様の働きが顕著になっていくことを覚えておきましょう。神様を恐れる教会には、神様が豊かに働いて下さいます。1216節が私たちに問うていることは、「あなたは神様を恐れていますか」ということです。

 

 次に、ペテロたちの二回目の逮捕について(1725)お話しします。一回目の逮捕で、彼らはもう二度とイエスのことを語ってはならないと厳しく命じられました。しかし、ペテロたちは神様の福音を伝えるのをやめなかったので、再び逮捕されました。大祭司とサドカイ派が使徒たちを捕らえました。大祭司はイスラエルのトップであり、イエス様を十字架にかけた中心人物です。しかし使徒たちは、イエス様が神様であって復活されたと伝え続けていました。大祭司は使徒たちへの妬みに燃え、復活を否定するサドカイ派も心中穏やかではありませんでした。そこで二度目の逮捕を決行したのです。二度目は、一度目より厳しくなっています。一度目はペテロとヨハネだけの逮捕でしたが、二度目では使徒たち(18)が逮捕されました。使徒全員かどうかはわかりませんが、教会の中心である使徒たちを捕らえて、教会の勢いに歯止めをかけようとしたのでしょう。

 

 しかし、驚くべきことが起こりました(1921)。牢の中にいる使徒たちの前に主の使いが現れ、彼らを牢から連れ出し、宮で御言葉を語るように命じたのです。宮とは、使徒たちがいつも集っていた所で、捕まっていた牢から近くにあります。さらに、宮は大祭司とサドカイ派が管轄していたこ所でもありました。ですから、使徒たちがすぐ捕まるのは必至です。けれども、使徒たちは主の使いが命じた通り、夜明けには宮で御言葉を語り始めました。

 

 それに対する反応は、非常に滑稽に書かれています。歴史資料を見ると、大祭司たちが裁判をしようとしていた議場は宮の中にあったと言われています。つまり、大祭司やサドカイ派が議場を出ると、すぐそこで教えている使徒たちがいた、ということです。遠くに逃げたと思っていた使徒たちが、自分たちの目の前で堂々と御言葉を語っている、これは大祭司たちには恐ろしいことだったと思います。

 

 こうして使徒たちは逃げずに御言葉を語り続けました。もし使徒たちが牢から出て遠くの町へ逃げたら、教会はなくなってしまったかもしれません。当時クリスチャンには、教会という建物はなく、信者の集まりのことを教会と呼んでいました。目に見える建物はないので、彼らは御言葉を常に語ることによって、教会というアイデンティティーを維持していたのです。もし御言葉が語られないなら、そこは教会ではなくなってしまいます。説教やふだん読んでいる御言葉に心を留め、できれば分かち合っていくことで、私たちは真の教会を維持することができるのではないでしょうか。

 

 また、御言葉を恐れずに語ることも大切です。御言葉を語る時、どの時代にも御言葉を聞きたい人、聞きたくない人がいます。イエス様が御言葉を語れば語るほど、信者は恵みに満ち溢れ、敵対者は更に反発するようになっていきました。使徒の時代も同じで、クリスチャンは増えていきましたが、クリスチャンへの迫害もエスカレートしていきました。私たちが御言葉を語る時、御言葉に生きる時、反発があるのは避けられません。しかし使徒たちがどんな反発の中でも、一つの宮で御言葉を語り続けたように、私たちも一つの家庭、教会に留まって御言葉を語る、御言葉に生きようとする時、私たちには計り知れない恵みがあります。

 

 「十字架のことばは、滅びに至る人々には、愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」(Ⅰコリント1:18)。

 

 天の父なる神様、那珂湊教会一同で一つの御言葉を聞きました。私たちがこれを心に留めて歩む時、私たちは教会です。今週一週間、私たちが御言葉を聞くこと、御言葉に生きることをやめずに歩むことができるようにして下さい。御言葉に反発する者たちの間に生きている兄弟姉妹も、おられるかと思います。どうか、彼らを強めて下さい。私たちにいつも真実な御言葉を与えて下さることを感謝しつつ、イエス・キリストの御名によってお祈りします(2018812日礼拝 武田遣嗣牧師)。