主の園だより

 

 今年は、私の入居している川越の主の園が開園23年を迎えました。

 

 1023日(金)には、感謝の集いが二部に分かれて行われましたが、例年通り文化祭と称する入居者による様々な作品の発表が12日(金)から19日(金)まであり、発表者にとっては多忙な日が続きました。

 

 作品は俳句、写真、手芸、絵画、書道、陶芸、ペープサート、川柳などですが、一番期待されていたのは一人の女性の川柳で、長い壁いっぱいに張られた「主の園一年」という主題の作品で、笑ったり、考えさせられたりの言葉が堂々と書かれていました。

 

 私は毎月二回の書道クラブ(墨友会)で練習した作品のうち、長文(たいてい聖書のことば)と半紙一枚の漢字を、どちらも額入りで発表しました。墨友会は男性2名、女性5名の少人数のクラブです。何しろ、腕前と言えば小中学校の授業と那珂湊で楷書の漢字を通信添削で2年間受けただけなので、平仮名はどうにも苦手で、今も汗をかいています。

 

 さて、今日は今週の聖書拝読の中で、強く示されたことをお伝えします。それは、コリント人への手紙15章の中にあります。

 

 「キリストは聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また聖書に従って三日目によみがえられたこと、またケパ(ペテロ)に現われそれから十二弟子に現れたことです(Ⅰコリ1535)。

 

 私の願うことは、使徒パウロが確信をもって記しているキリストの十字架と復活が、「私たちの罪のため」であったことを、あなたが信じる人の一人になって下さることです。実は私は70年前、東京大田区のドイツ人宣教師ブッス先生の家の応接間で行われた聖書研究会の中で、感激の思いと共にこれを信じた一人なのです。

 

 

 

 最近うれしいことがありました。その一つは、あるインマヌエルの牧師さんが、ご自分の誕生会の挨拶の中で、「ここ(主の園)へ来て親友が与えられた」と言われたことです。

 

もう一つは、60年前聖書学院で共に学んだ単立教会の牧師先生夫妻が入居され、私に会うために一生懸命入居者の皆さんに尋ねまわって下さり、先週ようやくご夫妻と共に昔話をすることができたことです。在学中はあまり気がつきませんでしたが、共にホーリネス教団に属していない教会の出身であったためか、在学中は私に特別関心を持っておられたそうです。「老人は昔を語る」で、今後も変化の少ない毎日にアクセントがつきそうです。(20181028日夜 依田次雄名誉牧師)