神に栄光を帰そう 使徒の働き12章18~25節

【新改訳2017】
使
12:18 朝になると、ペテロはどうなったのかと、兵士たちの間で大変な騒ぎになった。
12:19 ヘロデはペテロを捜したが見つからないので、番兵たちを取り調べ、彼らを処刑するように命じた。そしてユダヤからカイサリアに下って行き、そこに滞在した。
12:20 さて、ヘロデはツロとシドンの人々に対してひどく腹を立てていた。そこで、その人々はそろって王を訪ね、王の侍従ブラストに取り入って和解を願い出た。彼らの地方は王の国から食糧を得ていたからである。
12:21 定められた日に、ヘロデは王服をまとって王座に着き、彼らに向かって演説をした。
12:22 集まった会衆は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた。
12:23 すると、即座に主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫に食われて、息絶えた。
12:24 神のことばはますます盛んになり、広まっていった。
12:25 エルサレムのための奉仕を果たしたバルナバとサウロは、マルコと呼ばれるヨハネを連れて、戻って来た。

 

 ヘロデ王は、自分に利益をもたらさない人には冷酷でした(19,20)。「和解」には「平和」というギリシャ語が使われています。ツロとシドンの人々は、ヘロデと平和の関係を結びたかったのです。しかしこれは、上下関係により成り立っている平和であり、聖書の教える平和とは正反対でした。聖書の教える平和(イエスの平和)とは、人間すべての上にいる神様が人間のために下りてきて、人間のために十字架にかかって死ぬ、これによってもたらされたものです。

 

 ヘロデ王の最期について(21)、聖書は「定められた日」がいつだったか、明確にしていません。そこで、使徒の働きの時代と同じ時代を生きた、歴史家ヨセフスの文献「ユダヤ古代史」を見ると、ヘロデの死について書かれています。それによれば、ヘロデはBC44年にカイサリアで死んだそうです。聖書(19)には、ヘロデはカイサリアに下って行ったことが記されているので、両者に一致が見られます。そしてヨセフスは、ヘロデ王は皇帝を記念する競技会において、何らかの病を発症して死んだと記しています。これが真実だとすると、「定められた日」(21)とはBC44年、皇帝を記念する競技会の日であったことがわかります。そして、ヨセフスによればヘロデ王はこの競技会の主催者だったそうで、彼に気に入られたい人々が彼のもとに集まっていました(22)。また、彼はこの時、銀で装飾された服を着ていたそうです。ある神学者は、銀の王服を着ていることは、自分を神のように見せるためだったとしています。思ってもいないことを叫ぶ会衆、それを聞いて悦に入るヘロデ、これは偽りの平和が持つ悲しさが凝縮されているような場面ではないでしょうか。ヘロデが死ななければならなかった理由は、神に栄光を帰さなかったからです(23)。ヘロデが持っていたものは、すべて神様の恵みでした。しかし彼はそれを感謝せず、自分が神であるかのように振舞っていたのです。このように、ヘロデが人々と結んだ平和は、少し悲しいものです。ヘロデに関わらず、人間は皆罪人ですから、私たちの人間関係には多少の偽りやもろさがつきまとうことを、覚えておきましょう。

 

私たちは、「イエスの平和」に生きましょう。イエス様は神様の身分を捨て、罪人のところに下りていき、罪人に嘲られつつ十字架にかかって死なれました。ただこれにより、信じる者と神との間に、永遠の平和が築かれました。私たちはこの「イエスの平和」に生きる者として、イエス様のようにへりくだって、イエス様のように仕え合う必要があるでしょう。ヘロデは、自分に益のある人間関係を求めていました。しかし「イエスの平和」に生きる者は、自分に益がなさそうな人間関係にも平和をもたらそうとするのではないでしょうか。多くの貧しい人を助けたマザーテレサは、貧しい人々の中にキリストがいる、という言葉を残しました。貧しい人、社会から疎外されている人、小さいと思われている人々を愛し、仕えることは神様の御心であり、それはイエス様にしたのと同じだということです。また、私たちは「神に栄光を帰す」生き方をしたいと思います(Ⅰコリ1031)。そのためにできる小さな一歩を積み重ね、神様がいつも与えて下さっていることに感謝し続ける時、私たちはへりくだって、「イエスの平和」を教会や地域に広げていくことができます。

 

天の父なる神様、イエス様は、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさいと仰いました。私たちの所持するすべてのものは、神様からいただいたものです。ヘロデのように、自分を神としようとする心ではなく、いただいたものをいただいた神に心から感謝する、そのような歩みをしていけるようにして下さい。(2019210日礼拝 武田遣嗣牧師)