永遠の契約 使徒の働き13章13~35節

【新改訳2017】
使
13:13 パウロの一行は、パポスから船出してパンフィリアのペルゲに渡ったが、ヨハネは一行から離れて、エルサレムに帰ってしまった。
13:14 二人はペルゲから進んで、ピシディアのアンティオキアにやって来た。そして、安息日に会堂に入って席に着いた。
13:15 律法と預言者たちの書の朗読があった後、会堂司たちは彼らのところに人を行かせて、こう言った。「兄弟たち。あなたがたに、この人たちのために何か奨励のことばがあれば、お話しください。」
13:16 そこでパウロが立ち上がり、手振りで静かにさせてから言った。「イスラエル人の皆さん、ならびに神を恐れる方々、聞いてください。
13:17 この民イスラエルの神は、私たちの父祖たちを選び、民がエジプトの地に滞在していた間にこれを強大にし、御腕を高く上げて、彼らをその地から導き出してくださいました。
13:18 そして約四十年の間、荒野で彼らを耐え忍ばれ、
13:19 カナンの地で七つの異邦の民を滅ぼした後、その地を彼らに相続財産として与えられました。
13:20 約四百五十年の間のことでした。その後、預言者サムエルの時まで、神はさばきつかさたちを与えられました。
13:21 それから彼らが王を求めたので、神は彼らにベニヤミン族の人、キシュの子サウルを四十年間与えられました。
13:22 そしてサウルを退けた後、神は彼らのために王としてダビデを立て、彼について証しして言われました。『わたしは、エッサイの子ダビデを見出した。彼はわたしの心にかなった者で、わたしが望むことをすべて成し遂げる。』
13:23 神は約束にしたがって、このダビデの子孫から、イスラエルに救い主イエスを送ってくださいました。
13:24 この方が来られる前に、ヨハネがイスラエルのすべての民に、悔い改めのバプテスマをあらかじめ宣べ伝えました。
13:25 ヨハネは、その生涯を終えようとしたとき、こう言いました。『あなたがたは、私をだれだと思っているのですか。私はその方ではありません。見なさい。その方は私の後から来られます。私には、その方の足の履き物のひもを解く値打ちもありません。』
13:26 アブラハムの子孫である兄弟たち、ならびに、あなたがたのうちの神を恐れる方々。この救いのことばは、私たちに送られたのです。
13:27 エルサレムに住む人々とその指導者たちは、このイエスを認めず、また安息日ごとに読まれる預言者たちのことばを理解せず、イエスを罪に定めて、預言を成就させました。
13:28 そして、死に値する罪が何も見出せなかったのに、イエスを殺すことをピラトに求めたのです。
13:29 こうして、彼らはイエスについて書かれていることをすべて成し終えた後、イエスを木から降ろして、墓に納めました。
13:30 しかし、神はイエスを死者の中からよみがえらせました。
13:31 イエスは、ご自分と一緒にガリラヤからエルサレムに上った人たちに、何日にもわたって現れました。その人たちが今、この民に対してイエスの証人となっています。
13:32 私たちもあなたがたに、神が父祖たちに約束された福音を宣べ伝えています。
13:33 神はイエスをよみがえらせ、彼らの子孫である私たちにその約束を成就してくださいました。詩篇の第二篇に、『あなたはわたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ』と書かれているとおりです。
13:34 そして、神がイエスを死者の中からよみがえらせて、もはや朽ちて滅びることがない方とされたことについては、こう言っておられました。『わたしはダビデへの確かで真実な約束を、あなたがたに与える。』
13:35 ですから、ほかの箇所でもこう言っておられます。『あなたは、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せになりません。』

 

 ヨハネと別れたパウロとバルナバは、キプロス島を出発することになりました。ここで「パウロ一行」という言葉に注目しましょう。「サウロ」と表記されていた彼が、13節を境に「パウロ」と呼ばれるようになります。「サウロ」はユダヤ人名、パウロはローマ人名です。パウロはキリキヤ州で生まれ育ち、ローマの市民権を持っていました。この権利を持っていることによって、パウロは伝道旅行中、何度か拷問やむち打ちを避けることができました。ですから、パウロと名のったほうが、都合がよかったでしょう。更に深い意味があります。サウロは聖霊に満たされた時、名前が変わりました。また以後、伝道旅行の中心が、バルナバからパウロに変わっています(132,713)。これは聖霊によって賜物を開花させたサウロを、パウロと表現しているのではないでしょうか。そして彼は以降、力強く伝道旅行を引っぱっていきます。

 

 さて、彼らが次に向かったのは、ピシディアのアンティオキアでした。キプロスと同様、彼らはまずユダヤ教の会堂で伝道を始めました。パウロは、最初からユダヤ教信者にイエス・キリストを伝えるのではなく、まず旧約聖書の歴史を語り、旧約聖書の歴史とイエス様がどう繋がっていくのかを説明しようとしました。彼は、神がイスラエルの民に恵みを与えたことを強調しています。興味深いのは、「荒野で彼らを耐え忍ばれた」(18)という箇所です。荒野で罪を犯した民を見捨てずに、簡単に助けるようなこともせず、民の信仰が成熟するまで耐え忍ばれた、これが神の導き方でした。このように、パウロが神様の恵みの歴史を語っているのに対し、ステパノは人間の罪を語りました(使徒7章)。つまり、旧約聖書の歴史には人間の罪の歴史と恵みの歴史の両面があるのです。私たちの人生も罪を犯してきた歴史でもあり、そこから救い出されてきた恵みの歴史でもあります。私たちは双方を見ないと、バランスが悪くなります。自分の心の罪ばかり見て、神の救い、恵みを見ないなら、絶望しかありません。しかしただ恵みだけを見て、心の罪を見ないなら、本当の恵みを知ることができません。

 

 21節からは、パウロはイスラエルの王について語ります。ダビデ契約(Ⅱサム71214)の成就こそイエス様でしたが、それはユダヤ人には受け入れがたいことでした。彼らがイエス様を十字架にかけたからです。しかし、簡単には受け入れられない罪の現実を受け入れ、イエス様を信じることが、ユダヤ人にも私たちにも開かれた唯一の救いの道です。

 

私たちは、神様の救いの道を素直に受け入れることができるでしょうか。

 

 最後に、私たちは自らの罪と恵み、どちらにも目を向けているでしょうか。イスラエルの歴史は、神様が恵みを与え続けて下さった歴史です。しかし、人間がそれを拒否し続けた歴史でもあります。同じように、私たち個人の歴史にも、罪と恵みの歴史があるのではないでしょうか。私たちは自分の罪をしっかり見つめて悔い改めると同時に、ゆるしの恵みを感謝していきたいと思います。

 

 天の父なる神様、私たちの信じる救いは、二千年たった今でも有効です。それは神様が何前年という時を経て開いて下さった救いの恵みであり、イエス様が死をもって開いて下さった恵みだからです。私たちは地の基が据えられる前から、神様によって選ばれ、救われました。神様、私たちを一方的な恵みで救って下さってありがとうございます。続く聖餐式も祝福して下さい(201933日礼拝 武田遣嗣牧師)