めぐみのみことば 使徒の働き14章1~10節

【新改訳2017】
使
[ 14 ]
14:1 イコニオンでも、同じことが起こった。二人がユダヤ人の会堂に入って話をすると、ユダヤ人もギリシア人も大勢の人々が信じた。
14:2 ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人たちを扇動して、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。
14:3 それでも、二人は長く滞在し、主によって大胆に語った。主は彼らの手によってしるしと不思議を行わせ、その恵みのことばを証しされた。
14:4 すると、町の人々は二派に分かれ、一方はユダヤ人の側に、もう一方は使徒たちの側についた。
14:5 異邦人とユダヤ人が彼らの指導者たちと一緒になり、二人を辱めて石打ちにしようと企てたとき、
14:6 二人はそれを知って、リカオニアの町であるリステラとデルベ、およびその付近の地方に難を避け、
14:7 そこで福音の宣教を続けた。
14:8 さてリステラで、足の不自由な人が座っていた。彼は生まれつき足が動かず、これまで一度も歩いたことがなかった。
14:9 彼はパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼をじっと見つめ、癒やされるにふさわしい信仰があるのを見て、
14:10 大声で「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。すると彼は飛び上がり、歩き出した。

 

 パウロの伝道旅行で最も大切なことは、恵みのことばを語ることでした(3)。彼らはしるしと不思議を行うことができましたが、それは恵みのことばの確かさを証しするためでした。そして恵みのことばの内容とは、主にイエス様の救いについてであり、この救いを知ることが私たちに与えられた最大の恵みなのです。使徒の働きではパウロ一行が恵みのことばを語りましたが、イエス様も恵みのことばを語られました(ルカ422)。

 

 ここで、私の友人の証を紹介したいと思います。彼は都市部のある大きな教会で、中高生担当の牧師になりました。日曜日、緊張した面持ちで高校生たちに挨拶をすると、ある子が「あれ?児玉っち(前任者)は?」と言いました。いや、児玉っちはもういない、新しい牧師が来たんだという説明を受けると、中高生たちは、え?うそ~、いやだ~と叫び出し、「児玉っち!児玉っち!」とコールが始まったそうです。友人は、その場にいることも恥ずかしくなってしまいました。お前などいらないと言われているような気がしたからでしょう。しかし彼は、イエス様が十字架上で痛みに耐えながら、人々に「除け、除け」と言われていたことを思い出したそうです。イエス様は人々を救うためにこの世界に来られたのに、いらないと言われたわけですから、それがどれほどの悲しみだったのか、友人は恥と悲しみの一端をこの出来事を通して知ったそうです。イエス様は、自ら恥と痛みと悲しみに耐えることを選ばれました。それは本来、私たちが罪のために受けなければならないさばきでした。しかしイエス様は、私たちを愛するが故に、身代わりとなって下さったのです。私たちは恥や悲しみを避けて生きているかもしれませんが、イエス様はそこに向かって行った方です。それは、私たち人間を愛しておられるからです。こんなに愛に満ちている方がこの世界の唯一の神様であり、私たちは皆、神様に愛されている、そしてこの愛なる神様が開いて下さった救いこそ、私たちにとって最大の恵みなのです。今日は聖餐式がありますが、改めてイエス様の救いに感謝する時を持ちたいと思います。

 

 さて、聖書には三か所(使徒143、ルカ422、使徒2032)「恵みの(み)ことば」が出てきます。「恵みのことば」は私たちを救った後、私たちを成長させ、十分に整えてくれます。私たちが抱く成長のイメージは、社会的地位が上がること、ある分野の知識を身に着けることかもしれません。しかし信仰者として成長するとは、イエス様に似ていくことではないでしょうか。使徒の働きに登場するクリスチャンは、皆イエス様に似ている部分があります。例えばピリポはエチオピア人に伝道した後、姿が急に見えなくなり、別の場所に現れました。これは復活後のイエス様と重なります。また、ステパノは迫害者から石打を受けた時、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と言いました。これは、十字架上のイエス様の言葉と似ています。パウロ一行の行動(14章)も、イエス様と似ています。まず、どちらも「恵みのことば」を語りました。すると人々が二派に分かれ、迫害が起こりました(ルカ429、使徒145)。そして最後には、イエス様もパウロも逃げて別の場所で宣教を始めました(ルカ430、使徒146)。ここで私たちが心に留めたいことは、イエス様もパウロも、愛の故に逃げたということです。「恵みのことば」を信じない人たちが町の中に現れました(使徒1445)。彼らはパウロに対抗して、町の指導者たちと手を組みました。このように、イエス様の救いを信じない人々は、権力者を味方につけて使徒たちを迫害しようとします。力で自分たちの思い通りにしようとする、これが「恵みのことば」を受け入れない者の特徴です。一方、イエス様には一時期五千人以上の支持者がいたと言われ、奇蹟を行うこともできました。これほど人望と力があれば、イエス様は反対勢力を力で屈服させることができたかもしれません。しかしイエス様は、自分の力を示すという動機ではなく、いつも愛を動機にして働かれる方でした。使徒14章においても、パウロにはかなりの人数の味方がいて、反対勢力を屈服させる方法があったかもしれません。しかし、パウロたちはそれを選びませんでした。それはイエス様に似ていない、愛が動機ではないからです。

 

私たちは常に、愛以外の動機で生きる誘惑を受けています。私はある研修会で、「牧師にとって最大の誘惑とは、神様を大義名分にして、愛以外の動機で教会を動かそうとすることだ」ということを学びました。もしあらゆる手段を使ってこの教会に五百人、千人の人が来たとしても、教会に愛がなければ、神様は決して喜ばれないということを覚えておきたいと思います。私たちが愛することができない理由は何でしょうか。愛することはとても難しいことです。しかしそれにチャレンジしていくことによって、私たちはイエス様に似た者(愛する者)へと変えられていくのではないでしょうか。

 

愛に満ちた天の父なる神様、恵みのみことばをありがとうございます。あなたが恥と痛みと悲しみを越えて、私たちに与えて下さった救いをありがとうございます。主よ、イエス様が嘲られる者の立場に自らなられたように、私たちも愛のためなら誇りや恥を捨て、愛する者となっていくことができるようにして下さい。主よ、この教会が神様の愛を豊かに経験し、一人一人がイエス様のように愛する者へと成長していくことができるようにして下さい。(201947日礼拝 武田遣嗣牧師)