創造主を信じる恵み 使徒の働き14章8~18節

【新改訳2017】
使
14:8 さてリステラで、足の不自由な人が座っていた。彼は生まれつき足が動かず、これまで一度も歩いたことがなかった。
14:9 彼はパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼をじっと見つめ、癒やされるにふさわしい信仰があるのを見て、
14:10 大声で「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。すると彼は飛び上がり、歩き出した。
14:11 群衆はパウロが行ったことを見て、声を張り上げ、リカオニア語で「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになった」と言った。
14:12 そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロがおもに話す人だったことから、パウロをヘルメスと呼んだ。
14:13 すると、町の入り口にあるゼウス神殿の祭司が、雄牛数頭と花輪を門のところに持って来て、群衆と一緒にいけにえを献げようとした。
14:14 これを聞いた使徒たち、バルナバとパウロは、衣を裂いて群衆の中に飛び込んで行き、叫んだ。
14:15 「皆さん、どうしてこんなことをするのですか。私たちもあなたがたと同じ人間です。そして、あなたがたがこのような空しいことから離れて、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えているのです。
14:16 神は、過ぎ去った時代には、あらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むままにしておられました。
14:17 それでも、ご自分を証ししないでおられたのではありません。あなたがたに天からの雨と実りの季節を与え、食物と喜びであなたがたの心を満たすなど、恵みを施しておられたのです。」
14:18 こう言って二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げるのを、かろうじてやめさせた。

 

 多神教の町リステラで、足の不自由な人に、なぜイエス様の救いが届いたのでしょうか。彼は生まれてこのかた、一度も立ったことがありませんでした。この時代のイスラエルでは、このような人は、人通りの多い所で物乞いをするしかなかったそうです。通行人に疎まれ、自分の姿を毎日人の前にさらさなければなりません。どれほど恥ずかしかったかでしょう。でも彼は、パウロからイエス様の救いを聞きました。イエス様は人を罪から救うために、人々に馬鹿にされながら十字架にかかる、「恥の道」を自ら進んで行かれました。足の不自由な人には、多分聖書の知識はほとんどなかったでしょう。しかしイエス様が、自分のために受けて下さった恥については、彼は痛いほどわかっていたと思います。そして、その恥を受けてもいいと思うほどに彼を愛しているイエス様の存在に、深く感動したでしょう。ギリシャの神の中に、自分のために悲しみ、恥を背負ってくれた神はいません。「癒される」(9)と「救われる」は同じ言葉なので、救われるのにふさわしい信仰がある、と訳してもいいです。そして彼は歩けるようになりました(10)。でも歩けるようになった以上に、彼には救われた喜びがあったでしょう。

 

 一方、町の人々はこの奇蹟に驚いてパウロのもとに集まり、パウロ一行をギリシャの神と勘違いしました(1113)。彼らは奇蹟だけに目を留めて、パウロの語るめぐみの言葉(143)には耳を傾けなかったのです。私たちも、みことば以外のもの(自然の美しさ、歴史など)から、神様について多くの事を知ることができます。しかし、私たちが覚えておきたいことは、神様が与える救いと成長はみことばの中にあるということです。

 

 ギリシャの神と勘違いされたパウロとバルナバは、もちろん自分たちが神であることを否定し、創造主である神様について話し始めました。神様は唯一であって、この世界を創造された方である、これはギリシャの神々を信じる人々には、とても新鮮な話だったと思います。神様が多いだけ、一人一人の神様を小さく見てしまう傾向があるのではないでしょうか。しかし聖書のみことばは、私たちに神様の正しいスケールを教えます。

 

最近、早天祈祷会でK兄と「人生を導く五つの目的」(リック ウォレン著)という本を読んでいます。その第一章に、このようなことが書かれています。

 

「あなたは自分で自分を救ったわけではありませんから、自分が何のためにつくられたのか、わからないのは当然なのです。例えばここに、未だかつて見たこともないような発明品があったとします。あなたはこの使用目的を知らないでしょうし、その発明品自体が、その使用目的を教えてくれるわけでもありません。発案者、或いは取扱説明書だけがその目的を明らかにすることができるのです。もし私たちが神様につくられた発明品だとすると、その使用目的を知っているのは、つくられた神様です。神様から与えられた取扱説明書、つまり聖書をよく読んで、自分が創造された本来の目的に生きる必要があります..」。世の中の自己啓発書は、自分の心をよく調べるように言います。しかし私たちは、間違った出発点で自分の人生の目的を考えてはいけません。私たちは、神様につくられた被造物です。私たちがつくられた目的を知っているのは、私たちをつくられた神様だけです。私たちは神様を小さく見てはいないでしょうか。多神教世界に調子を合わせて、神を自分の目的のために利用しようとしていないでしょうか。神様は、私たちの立てた計画の達成を助ける存在ではあいません。神様はすでに、私たちや教会の計画を立てておられることを肝に銘じておきたいと思います。私たちが恵みのみことばに耳を傾け、神様のみこころに従って歩む教会でありますように。また私たち一人一人が、神様が立てておられる目的、計画に沿って進んでいくことができますように祈ります。

 

 天の父なる神様、みことばをありがとうございます。私たちを創造して下さったあなたを崇め、讃美いたします。神様は決して、気まぐれで事を行いません。私たちがここに生きていて、この教会に集っていることを覚える時、私たちには必ず本来の目的があることを覚えます。どうぞ、私たちがあなたに与えられた目的に沿って歩むことができるようにして下さい。神様を小さく見ることがありませんように。私たちが創造主なる神様を見上げつつ、今週一週間も歩んでいくことができるように助けて下さい。(2019414日礼拝 武田遣嗣牧師)