栄光の主を待ち望む 黙示録21章1~14節

【新改訳2017】

[ 21 ]
21:1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
21:3 私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
21:4 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」
21:5 すると、御座に座っておられる方が言われた。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。」
21:6 また私に言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。
21:7 勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。
21:8 しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。」
21:9 また、最後の七つの災害で満ちた、あの七つの鉢を持っていた七人の御使いの一人がやって来て、私に語りかけた。「ここに来なさい。あなたに子羊の妻である花嫁を見せましょう。」
21:10 そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のみもとから、天から降って来るのを見せた。
21:11 都には神の栄光があった。その輝きは最高の宝石に似ていて、透き通った碧玉のようであった。
21:12 都には、大きな高い城壁があり、十二の門があった。門の上には十二人の御使いがいた。また、名前が刻まれていたが、それはイスラエルの子らの十二部族の名前であった。
21:13 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
21:14 都の城壁には十二の土台石があり、それには、子羊の十二使徒の、十二の名が刻まれていた。

 

 今日は二つのことを聖書から学びましょう。第一は、天の御国はどんな場所なのか、第二は、天の御国を見上げる生き方とはどういう生き方なのか、ということです。

 

 「以前の天、以前の地」(1)とは、私たちが今住んでいるこの地上のことです。そして「新しい天と新しい地」(1)とは、天の御国のことです。この地上の歴史が過ぎ去って終わった後に、天の御国が完成すると聖書には書かれています。今日までに亡くなられた信仰者たちは今、神様の身許に休んでおられます。しかし亡くなられた信仰者も、この世界の終わりの日に復活し、天の御国に住むことになるのです。日本人の多くは、歴史が永遠に繰り返すと考えていますが、私たちがもし、この世界は繰り返すという歴史観に留まるなら、私たちが今ここにあることの積極的な意味を見出すことは、難しいのではないでしょうか。しかし聖書にはっきり書かれているのは、歴史はいつか完成するということです。その完成した場所が、天の御国です。聖書は何前年も前から、この世界を創造された大きな神様がいると啓示しています。そしてこの大きな神様が、歴史の最初から最後まで、すべてを計画しているのです。そしてこの世界は終わりの日に新しくなり、天の御国に変えられます。私たちの人生は、繰り返しの中の一回ではありません。私たちのこの世の人生は一回きりであり、かけがいのない一回です。神様は私たちを特別にデザインして、特別に愛し、共に生きたいと願っておられます。もし私たちが偶然に生まれたと信じるのなら、自分勝手に生きるのもよいかもしれません。しかし私たちは、神様の計画の一部を担うため、使命のためにこの世界に創造されたのです。

 

 また、天の御国には死、悲しみ、叫び声、苦しみがありません(3,4)。これは、イエス様が私たちの代わりにこれらを背負って死んで下さったからです。それがイエス様の十字架刑でした。この地上のあらゆる苦しみには、根本的な原因があります。それは人間の罪です。私たちの周りで起こる問題は、罪に起因しています。この罪は私たちを自己中心にし、したくない悪を行わせます。聖書には、「罪から来る報酬は死です」ということばがありますが、私たちはこの罪によって、永遠に死ななければなりませんでした。しかし神であるイエス様が私たちの罪を背負って、死んで下さいました。イエス様は私たちを愛するが故に、十字架という死刑に処され、十字架で悲しみ、叫び、苦しまれました。これによって、私たちに天国の希望が与えられたのです。私たちを死ぬほど愛しておられる神様が、この世界の唯一の神様である、これは私たちにとって最も大きな恵みではないでしょうか。私は自分自身で天国に行けるほど善人ではない、と感じておられるかもしれません。嘘をつき、何かを隠し、誰かを悲しませてきたかもしれません。でもイエス様は、その罪の故に十字架にかかって、死んで下さいました。もし自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを自分の主とするのなら、私たちはゆるされ、天の御国に行くことができます。そこでは神様が共に住んで下さり、すでに亡くなられた信仰者と喜びの時を過ごすことができます。

 

 続いて、天の御国を目指す生き方について学びましょう。イエス様を信じ救われた人は、その愛を人々に宣べ伝えたいと思うはずです。しかし暫くすると、自分の家庭や職場で愛を伝える難しさや、自身の愛のなさに気づきます。神様の愛、正義、慰めを、希望を失わずに伝え続けるために、私たちはどうすればいいでしょうか。そのヒントになればと思い、一つのお話(「ニグルの木の葉」JRR・トールキン著)を紹介します。昔、ニグルという画家がいました。彼は、この世のものとは思えないような、美しい木の絵を描きたいと思っていました。大きなキャンバスを買って描き始めましたが、彼の理想があまりに高いのと、近所の頼まれごとに親切に対応していたので、なかなか筆が進みませんでした。ある日ニグルのもとに一人の運転手が訪れ、ニグルを旅に連れ出しました。しかもニグルは、その旅先で死んでしまったのです。彼の死後、人々は彼の家に入り、木の葉が一枚だけ描かれた絵を見つけました。一方、ニグルが天国に着いたとき、その面前には見たこともないほど大きく、美しい木があったのです。それは、ニグルが描こうとしていた木、そのものでした。ニグルは両手を挙げて「ああ、これが神様からの贈り物だ」、と叫び喜んだそうです。彼が描こうとした美しい木とは、私たちがこの世界で実現を願っている愛や正義、慰め、喜びのことです。私たちは自分の家庭や職場で、その実現を目指していると思います。しかし、自分の力で完全な愛や正義を実現することはできません。そのごく一部を実現できるだけです。しかしクリスチャンは、この世界に完成の時があることを知っています。いずれ完成する天の御国を見上げつつ、希望を失わず、まず目の前の人にできる限りの愛と、正義を貫こうではありませんか。

 

 天の父なる神様、みことばをありがとうございます。私たち一人一人が失望することなく、天の故郷を目指して真っ直ぐに歩んでいくことができるように助けて下さい。(2019421日イ-スタ-礼拝 武田遣嗣牧師)