神に与えられた人生の目的 使徒の働き14章19~28節

【新改訳2017】
使
14:19 ところが、アンティオキアとイコニオンからユダヤ人たちがやって来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにした。彼らはパウロが死んだものと思って、町の外に引きずり出した。
14:20 しかし、弟子たちがパウロを囲んでいると、彼は立ち上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバとともにデルベに向かった。
14:21 二人はこの町で福音を宣べ伝え、多くの人々を弟子としてから、リステラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返して、
14:22 弟子たちの心を強め、信仰にしっかりとどまるように勧めて、「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない」と語った。
14:23 また、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食して祈った後、彼らをその信じている主にゆだねた。
14:24 二人はピシディアを通ってパンフィリアに着き、
14:25 ペルゲでみことばを語ってからアタリアに下り、
14:26 そこから船出してアンティオキアに帰った。そこは、二人が今回成し終えた働きのために、神の恵みにゆだねられて送り出された所であった。
14:27 そこに着くと、彼らは教会の人々を集め、神が自分たちとともに行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。
14:28 そして二人は、しばらくの間、弟子たちとともに過ごした。

 

 今日の説教では、パウロとパウロの迫害者が、それぞれ何に動かされていたのかをお話します。

 

パウロの迫害者は、怒りに動かされていました。彼らは群衆を抱き込んで、多数派の力でパウロを迫害しました(19)。これは、パウロを迫害する人たちに見られる一つのパターンです。確かに社会や政治の世界では、目的を達成するためにどれだけ多くの人、権力者を味方につけるのかが問われています。しかし迫害者に対して、パウロは権力や多数派の人たちを使って自分に従わせたり、無理に神様を信じさせようとはしませんでした。それは、イエス様に似た生き方ではないからです。さらに19節を見ると、この迫害者がユダヤ人であったことがわかります。彼らはユダヤ教の信者だったので、イエス様の救いを受け入れることができなかったのです。彼らなりの正義があったのでしょう。しかし私たちが覚えておきたいのは、どんな手段を使っても目的を達成すべきだという思想は、間違いだということです。怒りは、私たちを愛と真逆の方に連れていきます。先週、スリランカで連続爆破テロがありました。250人の方が亡くなる痛ましい事件で、被害に遭った建物のうち二箇所は、私たちと同じようにイースターを祝っていた教会でした。この事件は、イスラム過激派組織の犯行だと言われています。彼らは、神様のためにテロをしているという思想を持って自爆テロをしています。しかし、神様が目的達成のためにテロを命じることは、絶対にありません。私たちは、常に愛を基盤にして神様の目的に進んでいきたいと思います。また、特定の人や宗教を持つ人に怒りを向けるのはむなしいことです。あるスリランカ人のクリスチャンは、事件直後に「私たちが怒るべきは、仏教徒でもイスラム教徒でもない。テロリズムという思想だ」とFBに書き込んでいました。テロの実行犯に対する怒りは当然だと思いますが、実行犯とその関係者を力でねじ伏せたとしても、また別の場所でテロが起きかねないからです。世界中の人が怒りに動かされて、権力と多数派の力による解決に終始するのではなく、テロリズム、もっと言えば罪の解決に冷静に取り組めるように祈りたいと思いました。また私たちも、怒りに自分の人生の操縦席を奪われてしまってはいけないと思いました。

 

私たちが怒りに導かれない方法は、一つしかありません。それは、ゆるすことです。ゆるしは簡単ではないでしょう。しかし、イエス様に自分の大きな罪がゆるされている恵みを礼拝や、みことば、祈り、聖餐式の中で心に留めて、わたしもゆるそうという方向に導かれるほかありません。ある本に、「過去は過去でしかありません。過去は私たちを傷つけることはできません。私たちが過去の仕打ちを心に留め続けることによって、私たちは傷つき続けるのです」とありました。イエス様は「見よ、すべては新しくなった」と言って、私たちを新しい人生に導いて下さる方です。

 

さてパウロは、神様に与えられた人生の目的に従って歩んでいました。これを一言で言うと、神様の栄光を現すということです。彼はイエス様を知らない人、国に神様の救いを宣べ伝えることで神様の栄光を現そうとした人でした(2122)。しかしこのような生き方は、どうしても誘惑や試練にさらされます。パウロの石打ちも試練の一つでしたが、彼は感情に自分の生き方を振り回されることはありませんでした。彼は、一貫して神様の栄光を現す歩みをしたのです。

 

パウロ一行は長旅を終え、アンティオキアへ帰りました(2628)。この宣教旅行の記事を見ると、パウロにスポットライトがあたりがちですが、バルナバや多くの兄弟姉妹が彼を支え続けました。私たちは一人では、神様の栄光を現す目的を十分に果たせません。「これしかできない。でもこれを神様にささげよう」、こういう思いが集まって結晶になった時、神様の栄光を最も美しく現わすことができるのです。

 

天の父なる神様、私たちに人生を生きる目的を与えて下さっていることを、ありがとうございます。この教会に様々な、個性的な方々を与えて下さって、ありがとうございます。私たちがその違いを愛し、それぞれを敬い、互いに協力して神様の栄光を現していくことができるように導いて下さい。怒りをはじめとする感情に、私たちが振り回されることのないように、真っ直ぐに神様の道を歩ませて下さい。(2019428日礼拝 武田遣嗣牧師)