恵みによって救われる 使徒の働き15章1~11節

【新改訳2017】
使
15:1 さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに「モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。
15:2 それで、パウロやバルナバと彼らの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバ、そのほかの何人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。
15:3 こうして彼らは教会の人々に送り出され、フェニキアとサマリアを通って行った。道々、異邦人の回心について詳しく伝えたので、すべての兄弟たちに大きな喜びをもたらした。
15:4 エルサレムに着くと、彼らは教会の人々と使徒たちと長老たちに迎えられた。それで、神が彼らとともにいて行われたことをすべて報告した。
15:5 ところが、パリサイ派の者で信者になった人たちが立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、モーセの律法を守るように命じるべきである」と言った。
15:6 そこで使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。
15:7 多くの論争があった後、ペテロが立って彼らに言った。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は以前にあなたがたの中から私をお選びになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされました。
15:8 そして、人の心をご存じである神は、私たちに与えられたのと同じように、異邦人にも聖霊を与えて、彼らのために証しをされました。
15:9 私たちと彼らの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。
15:10 そうであるなら、なぜ今あなたがたは、私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みるのですか。
15:11 私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです。」

 

 15章は、エルサレム会議について書かれています。各教会の代表者がエルサレムに集結し、一つの事柄を決定しました。それは「信仰によって救われる」ということです。

 

 まず、エルサレム会議の発端は、アンティオキア教会に、信仰プラス割礼が必要だと主張する人々(割礼派)がユダヤからやってきて、教え始めたことでした(1)。割礼派の力は強く、ガラテヤの教会ではペテロとバルナバでさえ、彼らの誤りを指摘することができなかったほどでした(ガラテヤ21113)。一方、アンティオキア教会には様々な人種、異邦人が集っていて、ユダヤ人のように割礼は受けていないけれど、クリスチャンだという人ばかりでした。そこでパウロとバルナバは割礼派に対し信仰による救いを主張し、この問題について、エルサレムで会議がもたれることになったのです。

 

 割礼派の人々は、教会を壊そうとしていたのではありません。彼らは熱心な信仰者でした。旧約聖書に記された割礼を忠実に守ることを願っていました。しかし彼らの熱心は、彼ら自身と教会に混乱を生むことになりました。ここでわかるのは、救いと行いを結びつける恐ろしさです。私たちは行いによらず、イエス・キリストの十字架と復活を信じることで救われます。私たちは神様を見上げて、神様に感謝するために礼拝に行き、讃美をし、献金をし、奉仕をします。決して救われるためではありません。イエス様の尊い犠牲には、それほど力があるということを、私たちは覚えておきたいと思います。

 

 さて、この長年にわたる問題に終止符を打ったのがペテロの言葉でした(79)。ここで注目したいのは、ペテロの話が「神」が主語になっていることです。あくまで、救いは神が与えるものなのだ、ということを強調しています。また、「私たち」とはユダヤ人、「彼ら」とは異邦人のことです。神様は人種や生まれによって人を差別することはなく、ただ私たちがイエス様を信じた時に救いを与えて下さる方なのです。

 

 「私たちも負いきれなかったくびき」(10)とは、行いによる救いのことです。このくびきを負った人は、行いによっては救われないのに、一生到達できない救いを追い求め続けて、不自由な生活を送ることになります。割礼派のクリスチャンも、行いによる救いが不可能であることに気づいて、このくびきを捨てて、信仰による救いを選んだはずでしたが、自分たちが負いきれなかったこのくびきを、異邦人たちに課そうとしていました。

 

 私たちは恵みにより、信仰によって救われます。行いによる救いは、わかりやすいかもしれません。この救いを信じる人は、行えば行うほど自分の救いに安心できますが、逆に行いが伴わなければ救いを確信できず、不安になるでしょう。不安と安心を行きつ戻りつすることになります。そしていつも安心するために、自分より行いのない人を見つけ、非難するかもしれません。そんな救いであれば、果たして信じる価値があるでしょうか。しかし創造主なる神様が私たちに下さった救いは、信仰による救いです。これを心に留めて、今日の聖餐式にあずかろうではありませんか。

 

 「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(マタイ112830)。

 

天の父なる神様、信仰による救いを私たちに与えて下さったことを、心からありがとうございます。私たちには、行わなければ救われないという恐ろしいくびきではなく、信仰によって救われるという負いやすいくびきが与えられています。どうぞ、このくびきをイエス様と一緒に負うことによって、私たちのたましいに平安をお与えください。(201955日礼拝 武田遣嗣牧師)