混乱から解放する真理 使徒の働き15章12~29節

【新改訳2017】
使
15:12 すると、全会衆は静かになった。そして、バルナバとパウロが、神が彼らを通して異邦人の間で行われたしるしと不思議について話すのに、耳を傾けた。
15:13 二人が話し終えると、ヤコブが応じて言った。「兄弟たち、私の言うことを聞いてください。
15:14 神が初めに、どのように異邦人を顧みて、彼らの中から御名のために民をお召しになったかについては、シメオンが説明しました。
15:15 預言者たちのことばもこれと一致していて、次のように書かれています。
15:16 『その後、わたしは倒れているダビデの仮庵を再び建て直す。その廃墟を建て直し、それを堅く立てる。
15:17 それは、人々のうちの残りの者とわたしの名で呼ばれるすべての異邦人が、主を求めるようになるためだ。
15:18 ──昔から知らされていたこと、それを行う主のことば。』
15:19 ですから、私の判断では、異邦人の間で神に立ち返る者たちを悩ませてはいけません。
15:20 ただ、偶像に供えて汚れたものと、淫らな行いと、絞め殺したものと、血とを避けるように、彼らに書き送るべきです。
15:21 モーセの律法は、昔から町ごとに宣べ伝える者たちがいて、安息日ごとに諸会堂で読まれているからです。」
15:22 そこで、使徒たちと長老たちは、全教会とともに、自分たちの中から人を選んで、パウロとバルナバと一緒にアンティオキアに送ることに決めた。選ばれたのはバルサバと呼ばれるユダとシラスで、兄弟たちの間で指導的な人であった。
15:23 彼らはこの人たちに託して、こう書き送った。「兄弟である使徒たちと長老たちは、アンティオキア、シリア、キリキアにいる異邦人の兄弟たちに、あいさつを送ります。
15:24 私たちは何も指示していないのに、私たちの中のある者たちが出て行って、いろいろなことを言ってあなたがたを混乱させ、あなたがたの心を動揺させたと聞きました。
15:25 そこで私たちは人を選び、私たちの愛するバルナバとパウロと一緒に、あなたがたのところに送ることを、全会一致で決めました。
15:26 私たちの主イエス・キリストの名のために、いのちを献げている、バルナバとパウロと一緒にです。
15:27 こういうわけで、私たちはユダとシラスを遣わします。彼らは口頭で同じことを伝えるでしょう。
15:28 聖霊と私たちは、次の必要なことのほかには、あなたがたに、それ以上のどんな重荷も負わせないことを決めました。
15:29 すなわち、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、淫らな行いを避けることです。これらを避けていれば、それで結構です。祝福を祈ります。」

 

 エルサレム会議では、信仰による救いか、信仰プラス行いによる救いかということが議論されましたが、ペテロの力強い主張により(711)、信仰による救いこそ正しいという結論が出されました。そして、今日の個所ではヤコブの主張が展開されます。

 

 ヤコブは、世界中に出て行って伝道する人と言うより、エルサレム教会に留まって教会を整えるリーダーであったと言われています。ですから、エルサレムにおいてヤコブの発言は、非常に影響力を持ち、エルサレム会議でも彼が締めのことばを語っています。ここでヤコブは、旧約聖書のアモス書9章を引用し、異邦人の救いが神様の計画であることを主張しました(1618)。「倒れているダビデの仮庵」とは、人の罪によって神様と人との関係が壊れてしまったことを表しています。旧約聖書の時代、幕屋や神殿が神様と人が出会うための場所とされていました。仮庵とは、幕屋や神殿をより簡素にした掘立小屋のようなものだそうです。幕屋や神殿が掘立小屋のようになり、さらに倒れている、つまり神様と人との関係がほとんどないに等しい、ひどい状態を表したことばです。アモスがイスラエルの人々にこの預言をした時、イスラエルはまさにこのような状態でした。しかしアモスは、「仮庵を建て直す」と預言し、それはイエス様の復活によって成就しました。建物によって人が神様に出会うのではなく、イエス様が神様と人を繋ぐ人になって下さり、これによって異邦人の救いが始まったのだと説明したのです。このように、ヤコブのすばらしいところは、聖書のことばに根拠をもって信仰による救いを主張したことです。711節でペテロ、パウロ、バルナバが信仰による救いを主張していますが、彼らは自分たちの経験を通して語ってきました。勿論これは非常に大切なことですが、ヤコブはみことばに根拠をもって信仰による救いを主張したのです。私たちも、このような信仰者になりたいと思います。

 

 さて、信仰による救いを主張してきたヤコブですが、20節から急に、避けるべき四つの行いについて話し始めました。これらはユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンとの間で、意見の分かれやすい問題だったそうです。特に、偶像にささげられた肉を食べることは、ユダヤ人クリスチャンの間では絶対あり得ないことでしたが、異邦人クリスチャンの間ではよくあることだったそうです。なぜなら、ギリシャの神に一度ささげた肉が市場でよく売られていたからです。エルサレム会議で信仰による救いが採択されたことにより、異邦人クリスチャンが堂々と偶像にそなえた肉を食べるなら、それを見たユダヤ人クリスチャンとの間に大きな溝ができるでしょう。ヤコブはこれを避けるため、教会が一致するために四つの避けるべきことを主張したのだと思います。またパウロも、偶像にささげた肉の取り扱いについて語っています(Ⅰコリ8)。パウロはそれを食べることによって、兄弟姉妹を躓かせるなら食べないほうがいいと考えました。もし私たちが聖書から正しい知識を得たとしても、それを武器にするなら、そこに愛がないなら、それは神様の御心とは言えません。私たちは真理を語ることが大事です。しかしそこに愛があるのか、私たちは自分に問いかけなければなりません。

 

 21節でエルサレム会議は終了し、22節から、教会は新しいスタートを踏み出しました。パウロとバルナバは、ユダとシラスと共にアンティオキアに戻ることになりました。このユダとシラスは、エルサレム教会の長老、リーダーの一人だったと言われています。彼ら4人は、エルサレム教会の決定(信仰による救い)を教会に教えました。意見が分かれて混乱状態にあったアンティオキア教会は、教会全体で信仰による救いを受け取った時、励まされ一致したのです。

 

 私たちも、「信仰による救い」を信じなければなりません。私たちは、行いや奉仕によって自分の救いに安心したいという誘惑にかられます。しかしそれだと行いが多いと安心し、足りないと不安になるものです。私たちの行いや奉仕は、神様への感謝の応答であるべきです。ヤコブのように、私たちもみことばを通して信仰による救いを確信し、信仰による救いを握って歩みましょう(使徒2032)。

 天の父なる神様、私たちに神様を信じる信仰を、聖霊によってお与えください。私たちが恐れ、悩む時に、私たちの心にみことばを響かせて、いつも信仰による救いに立ち戻っていくことができますようにお願いいたします。(2019512日礼拝 武田遣嗣牧師)