イエスは悲惨な場に ヨハネの福音書2章1~11節

【新改訳2017】
ヨハ
2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母がいた。
2:2 イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれていた。
2:3 ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
2:4 すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 母は給仕の者たちに言った。「あの方が言われることは、何でもしてください。」
2:6 そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、石の水がめが六つ置いてあった。それぞれ、二あるいは三メトレテス入りのものであった。
2:7 イエスは給仕の者たちに言われた。「水がめを水でいっぱいにしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
2:8 イエスは彼らに言われた。「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
2:9 宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのかを知っていたが、世話役は知らなかった。それで、花婿を呼んで、
2:10 こう言った。「みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。」
2:11 イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

 

 今日の箇所は、イエス様が神の子、真の救い主であることをご自分が現わされた七つのしるしのうちの、第一のしるしです。この箇所から、イエス様はどのような方なのか、人にどのように関わって下さるのか、私たちの関わり方はどうしたらよいのかを味わいたいと思います。

 

 まず、このしるしが行われた時は、ナタナエルが「あなたは神の子です」と告白した日(ヨハ149)から3日目にあたります。また、その場所はナタナエルの郷里と思われるガリラヤのカナ(ナザレから北に約14㎞)でした。このようにヨハネは、時や場所を具体的に記しています。それはこのしるしが歴史的、具体的な出来事であって、単なる作り話ではないということを示すためでした。さらにヨハネは、イエス様は私たちに具体的に関わって下さる神の子であるということも伝えています。私たちは悲しんだり、苦しんだりします。私も2005年以来病気の連続ですが、そういう私たちにもイエス様は関わって下さいます。

 

さて、「水を葡萄酒に変える」という神の子のしるしは愛です。これについて三つ、見てみたいと思います。一つ目は、カナで婚礼があったということです(21)。ガリラヤは、パレスチナ全体からすれば北の辺境であり、カナは小さな村でした。いわば人々から見捨てられたような村で、何より大切な「イエス様は神の子である」というしるしを現わされました。私たちも見捨てられたような者と思うことがあるかもしれません。1週間ぐらい前、私の友人の弟さんが訪ねて来られました。この方の奥さんは25年間躁鬱で苦しんでおられ、二人とも信仰を持って一生懸命祈っているのに、病は良くならない、自分の祈りが足りないのではないかなどと悩んでおられました。私は何も言うことはできません。ただ、そんな私たちにイエス様は目を留めていて下さるということを、共に分かち合うだけでした。自らも病で苦しんでいるのですから。カナでのしるしは、イエス様は誰にも顧みられないと思っていても、実は目を留めていて下さるのだということを表わしています(ルカ1930)。

 

二つ目は、葡萄酒がなくなったことです(22)。ユダヤの婚礼で無くてはならないものは葡萄酒であり、葡萄酒は喜びの象徴であるのに、それがないというのは悲惨でした。しかしイエス様は、このような悲惨な場に来て下さるのです。実は人間はアダム、エバ以来罪を犯し、本来なら人間につくられ、結婚に導かれ、人間として生かされることは喜びであるはずなのに、それが一番の悲しみ、苦しみとなっている、喜びの場が悲惨の場になっています。でもそこにイエス様は来て下さいます(マルコ1049)。

 

三つめは、給仕が今までよりもっと良い葡萄酒を持って行ったことです(210)。つまりイエス様は、これまでの悲惨の場を喜びの場に変えて下さる方なのです。私が昔奉仕をしていた教会で、ある老夫婦にお孫さんが生まれました。お孫さんは脳に障害があり、親にあたる若夫婦はもちろん、老夫婦も深い悲しみに陥りました。しかし、やがてこの二組の夫婦は教会に来るようになり、イエス様を信じました。お孫さんの障害が治ったわけではありません。しかし、この子こそ自分たちにとって喜びであり宝です、もしこの子がいなければ、自分たちはこんな喜びを味わうことはなかったし、いのちを知ることはできなかったでしょうと言われるようになりました。イエス様はこのような悲惨な出来事も喜びに変えて下さる、これはイエス様が神の子であることの、何よりのしるしです。またこのしるしは、イエス様がご自分のいのちをもって、新しい契約をつくると言うことも表しています(ルカ2219)。

 

このように今日の箇所は、イエス様が最初のしるしとして行われた愛とは見放されているような者のところに来て下さる愛、悲惨な、困難なところに来て下さる愛、そしてただ来て下さるだけでなく、悲惨や困難を喜びに変えて下さる愛であり、さらに喜びに変えて下さるのは、イエス様の十字架と死によるいのち、新しい契約を通してであるということを表しています。どうかイエス様がお一人お一人にこのように語りかけておられることを、聞いていただきたいと思います。ご聖霊がお一人お一人に語りかけて下さり、それぞれがイエス様の愛に満たされて、午後の歌う会を楽しむことができますように。

 

天の父なる神様、今日イエス様が神の子である、救い主であるということを公にお示しになった第一のしるしを、共に見てまいりました。どうぞあなたが、このイエス様が何としても私たちに示そうとされた神の子であるということのしるし、愛をお一人お一人が味わうことができるように、ご聖霊が導いて下さい。(2019616日)

☆ 礼拝後、食事を共にし、「歌う会」を行いました。