苫小牧①

 

PMFオケ公園を聴く

  

 苫小牧には710日夜到着した。そして14日、最初の主日礼拝奉仕であった。貧しい奉仕にも拘わらず主が憐れみによって用いて下さったと信じてお委ねしている。礼拝は小生夫婦を含めて10人で、聖餐式と、後に愛餐会もあった。 

 

 その翌日715日、思いがけずPMF オーケストラ公演を聴く恵みに与った。

 

 PMFはこの時機、札幌を中心に世界中の一流演奏家が集まる一大イベントである。2年前旭川 緑が丘教会奉仕の期間、PMFオケが旭川に来ないことが残念であった。ところが今回、全く想像外で、苫小牧到着五日後に聴けることになるとは、主の格別の恵みによる外はない。

 

 内容は4曲であった。J・アダムス、チャイコフスキー、プロコフィエフ、R・シュトラウスのものである。小生は演奏について批評することは出来ない。ただ、すばらしい演奏だったと言う外はない。

 

 その演奏を聴きながら考えていたことがある。それは演奏とは何重にも信頼と協力があって、初めて実現するのだろうということである。先ず、作曲者がある。どんなにすばらしい作曲をしていても演奏者がいなければ音になった曲を聴けない。演奏者は指揮者によって解釈された曲に従って演奏する。演奏者自身もその曲に取り組み自らの解釈と指揮者の解釈との折り合いをつけて実際に演奏するのだろう。しかも指揮者や演奏者の解釈が作曲者の意図する通りかどうかが常に問われるに違いない。

 

 色々と思い巡らすと、神ご自身がお書きになった聖書と、それを解釈し説教する牧師、その説教を聴く教会員の関係と似ているように思えて来た。教会が、神のことばを具体的に生きることは、作曲者の曲を具体的に音楽とすることのようである。

 

 どうにかして、すばらしい原曲であるみことばを、作曲者ご自身である神の意図に適った音楽を世に奏でたいと願わされた。PMFオケ講演会の恵みは、主の御言葉を表すようにとの新たな願いの招きでもあった。

 

  

②霧と寒さ

 

  苫小牧に来て一週間が経った。この間、晴れた日は一度もない。那珂湊では真っ青な空と朝は茜色になった東の空から日が上り、真っ赤に染まった夕焼けが見えた。しかし、苫小牧での一週間、太陽をほぼ見ることはなく、何度か雲に覆われた薄陽を見ただけである。朝は毎日霧が立ち込めている。道を歩く時、傘を差せばいいのか迷う。傘を差さないと濡れるようだし、差すまでもないようだ。教会の南側約50mには片側3車線のバイパスが通っているが、多くの車はヘッドライトを点けている。

 

 この霧のためか、陽が差さないからか、気温が低く寒い。最低気温は勿論、最高気温も20度以下ではないだろうか。寒がりの小生などはストーブを点けずにはおられない。以前から苫小牧の夏は気温が低いとは聞いていたが、実際に経験して納得したのである。何でもそうだが知識で知っているのと、体験的に知るのは全く別物だと分かったように思う。

 

 聖書のことばでも、信仰でも、単に知識で知っているのと、それを体験的に知るのでは全然違うことを思わされた。みことばを体験的に知ることが大切だと今更ながら知らされたのだから、毎日みことば体験するよう求めて生きよう。

  

友、遠方より来る

  

 ベルギーのブリュッセルから信仰の友が苫小牧の小生たちを訪ねて来た。彼とは3年前、小生たちがブリュッセル日本語教会で奉仕した時に親しい交わりが与えられた。最初に出会ったのは10年前、ヨーロッパキリスト者の会がスイスで行われた時、湖上を巡る船の甲板のベンチであった。その時は深く語り合うことはなかったが、彼のことを忘れることはなかった。

 

 3年前ブリュッセル教会で奉仕した時、彼も時々出席していたので親しく交わるようになった。彼はカトリックの忠実な信者であった。元々北海道の静内・日高近辺で中学まで育ち、高校は新潟で送り、高卒後、札幌で浪人生活を過ごしたとのことである。その浪人時代に校門でもらった一枚のトラクトを読み、近くのアッセンブリ―教会に通うようになった。大学は新潟大学に進学し、フランス語を専攻した。そのフランス語教師がベルギーからのカトリックの神父で、信仰に導かれたとのことである。大学卒業後ベルギーに留学し、ベルギーの女性と結婚し、今日まで約40年歩んできたのである。

 

 小生たちがブリュッセルにいる時、牧師館に来てカトリックの信仰書を紹介してくれた。それまでカトリックの信仰書を皆無と言っていい程読んだことはなかった。だから彼が貸してくれる本は小生にとって難しかった。と同時に、目が覚めるように新しく教えられることが多かった。そしてカトリックの信仰者たちが小生たちの信仰と同じ神の家族であることを強く思わされた。

 

 だから今回、彼が小生たちを訪ねてくれるのは本当にうれしく待ち遠しかった。苫小牧にいる彼のお姉さんの所に滞在していて、そこからお姉さんに車で送ってもらって来た。彼は翌日、仙台に行くので時間があまりなく、一時間くらいしかないという。いっしょに澄代の手料理を食べながらの交わりである。

 

 彼は6月下旬に日本に来て、7月末にベルギーに戻る予定で、その間カトリックの信者たちが殉教した地を訪ね、その殉教の歴史をまとめ、ベルギーのカトリック教会と日本語プロテスタント教会で報告するそうである。そのために九州島原、金沢、東京、仙台、名古屋等における殉教地を実際に訪ねて、その実態を調査しているとのことであった。約一ヶ月の滞在を殆どカトリック信者の殉教の歴史を調査している様子を、短い時間で休みなく語り続けてくれた。あっという間に1時間の予定が過ぎ2時間になった。彼は昼食をとるのもそこそこにお姉さん宅に戻って行った。

 

 小生たちプロテスタント信者はこの国での迫害の歴史を、プロテスタント宣教以後のことでしか考えない。しかし実際にこの国におけるキリスト教に対する迫害の歴史は、16世紀末から始まっていたのであり、多くの殉教者がいたのである。そのことをプロテスタント教会は今一度、自らのこととして見直さなければならない。遠くベルギーのブリュッセルからの信友の訪れはそのことを覚えさせられたのである。

  

④親切な新聞配達

  

 苫小牧に来て数日しか経っていないので、まだ地理が良く分からない。地名を聞いてもそれが市内のどこに位置するのか皆目分からない。そんなところで、ある人の家を訪ねることになった。住所は一応分かっている。しかし名前は分からない、という変な家探しである。

 

 その人の住所表記の所近くまでは迷うことなく行けた。ところが住所の○丁目△番地×号という表記で「×号」にたどり着けない。ないのである。それでも一番近い号数の所にあったアパートに入って郵便受けの名前を見た。が名前は分からないのである。それでもその人に関係のある姓の人を探すと一人いた。だからと言ってその人が尋ねている人かどうかは全く分からないのである。とにかく藁をもつかむ思いで玄関に行き、インターホンを押した。しかし応答はない。何度か押してもないのであきらめて帰ることにした。

 

アパートを出て少し行くと、若い新聞配達の女性が通りかかった。彼女に声をかけて番地を示してどこにあるか尋ねた。するとすぐに自転車のスタンドを立て、持っているスマホでその番地を探してくれた。やはり「×号」はなかった。彼女は何か他の方法でも調べてくれたが同じであった。さらに配達の途中にも拘らずさっきのアパートのあたりまで来て確認してくれた。小生たちがお礼を言い、配達を続けるように言っても、一緒に探そうとまでしてくれたが、漸く自分の仕事に戻った。その後小生たちは諦めきれずウロウロしていた。そこにまたさっきの彼女が小生たちを見つけて「配達が終わったので一緒に探しましょう」と声をかけてくれた。それでも結局見つからず帰ることにした。彼女はバス停までいっしょに行ってくれると言う。感謝しつつそれを断り、バスに乗り教会に帰ったのである。

 

とにかく、こんなにも親切な新聞配達の人に感激しきりである。若いころの新聞配達の経験からして、途中で誰かの人探しを手伝うなど考えられない。しかし彼女は親切に一緒に探してくれたのである。小生はその夜、その新聞配達の販売店を探し当て、電話をした。そして「お宅の配達員に大変お世話になり感謝を伝えたい。そして彼女にお礼を言っておいて下さい。特別ボーナスでも出して下さい」とお願いしたのである。

 

とにかく、苫小牧に、こんなにも親切な若者がいることに嬉しくなったのである。

 

☆上の写真は千歳についたとき役員の方々が迎えて下さり、頂いた花束です。那珂湊ではとっくにバラの季節は終わりましたが、こちらは涼しいので、各家庭の庭にたくさんの種類のバラがあります。下の写真は糸井教会です。