新しく生まれる喜び ヨハネの福音書3章1~5節

 

【新改訳2017

 

ヨハ 3 ]

 

3:1 さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。

 

3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」

 

3:3 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

 

3:4 ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」

 

3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。

 

 

 今日は、午後から大洗教会でマシューさんの洗礼式があります。マシューさんは今年30歳です。そして大洗教会の洗礼槽を使うのは30年ぶりで、今日は本当に喜ばしい日です。

 

さて、イエス様を信じて救われるとは言い換えると、新しいいのちを歩むということではないでしょうか。でも新しいいのちを歩むとは、葛藤の連続です。私たちは洗礼を受けたものの自分は全然変わらない、他のもののほうがイエス様より大事、中途半端な思いで洗礼を受けてしまったなどと考えるものです。今日は、新しいいのちを歩むとは一体どういうことなのか、共に考えたいと思います。

 

まず、イエス様が新しく生まれなければならない、と言われた対象はユダヤ人の議員、ニコデモでした。ユダヤの議員は当時71人しかおらず、政治、聖書などあらゆる知識に秀でていなければなりませんでした。ニコデモは富、地位を持ち、謙虚で内面も申し分ない、人生の成功者でしたが、心の欠けがありました。だから夜、こっそりイエス様のところに訪れたのです。

 

日本人なら、2節のニコデモの言葉に対し「いや、いや」と謙遜するかもしれません。でもイエス様は、彼に最も必要な言葉を返されました(3)。人間的に見れば、ニコデモは新しく生まれる必要などない、立派な人です。しかしイエス様は誰にでも新しいいのちが必要であり、救いがいらない人はいないと考えておられました。

 

では、どうすれば私たちは新しいいのちを受けることができるのでしょうか。シンプルに言えば、それは「イエス様を自分の救い主にする」ということです。私たちは皆、罪を持っています。そして罪からくる渇きから救われるために、色々なものに救いを求めるのではないでしょうか。しかし、イエス様以外のものが一時的に癒しを与えてくれることがあっても、私たちの心にはイエス様しか満たせない穴、渇きがあります。

 

救いは神様からの贈り物です。私たちの努力によるものではありません。4節以降のニコデモの反応を見ると、彼はなかなか納得できませんでした。そこでイエス様は最後に、神の愛を語られました(1416)。14節は、後にイエス様が十字架にかからなければならないことを表しています。

 

私は神学校で勉強していた頃、後輩に「神様とは一言でいうとどんな方ですか」と聞かれたことがありました。私はいろんな話を聞き、神学的知識をためこんで、シンプルに神様は愛だ、と答えたくない思いがありました。しかしある時、心の覆いが取り除かれて聖書を開いた時に、神は愛であると受け入れられました。自身の高慢によって神様の愛がわからなくなっていたのです。私たちは多くの聖書の知識があっても、福音のシンプルなところに心から感動し、それを伝える者になりたいと思います。

 

新しいいのちを生きるとは、神様の愛を原動力にして歩むことではないでしょうか。私がまず神様に愛されたから、神と人を愛そうという生き方です。神の愛に生きる者が、天の御国に導かれるのです。これから聖餐式を行いますが、新しいいのちに感謝しつつ、新しい一か月を歩んでいきたいと思います。

 

天の父なる神様、あなたの深い愛をありがとうございます。艱難も飢えも恥も、高いところにあるものも、深いところにあるものも、私たちを神の愛から引き離すものはないと、みことばに書かれています。私たちが神様から離れたと思っていても、神様はいつも手を差し伸べ、わたしのところに帰っておいでと、あの放蕩息子の父親のように私たちを待って下さいます。あなたの愛をありがとうございます。聖餐式を通して神様の愛を受け、また新しい一か月を歩むことができますように助けて下さい。(2019113日礼拝 武田遣嗣牧師)