神様とともに生きる へブル人への手紙11章1~9節

 

【新改訳2017

 

ヘブル

 

[ 11 ]

 

11:1 さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

 

11:2 昔の人たちは、この信仰によって称賛されました。

 

11:3 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。

 

11:4 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神に献げ、そのいけにえによって、彼が正しい人であることが証しされました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だと証ししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって今もなお語っています。

 

11:5 信仰によって、エノクは死を見ることがないように移されました。神が彼を移されたので、いなくなりました。彼が神に喜ばれていたことは、移される前から証しされていたのです。

 

11:6 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。

 

11:7 信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神から警告を受けたときに、恐れかしこんで家族の救いのために箱舟を造り、その信仰によって世を罪ありとし、信仰による義を受け継ぐ者となりました。

 

11:8 信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。

 

11:9 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに受け継ぐイサクやヤコブと天幕生活をしました。

 

 

 今日の聖書の箇所は、信仰の定義としてよく用いられています。まず、信仰とは将来と自分を結び付け(1)、過去と自分を結び付ける(3)ものだと記されています。そして、4節以降に神を信じる人々の実例が記されています。

 

 第一はアベルです。彼は妬みの故に、兄カインによって殺されました。悲劇の人生でしたが、彼が神様にささげたいけにえは、神様に「よいささげ物」と評価されました。つまり、ささげ物によって彼の信仰が表されたのです(創世記44)。私たちが何かを熱心にしようとする時、その動機は何でしょうか。アベルの熱心さは神様にささげたいというものでした。神様への感謝と共に生きた、これがアベルの信仰でした。

 

 第二はエノクです。エノクと私の父とは重なるところがあります。息子メトシェラを生んでから300年神と共に歩んだ(創522)とあるので、おそらく息子が生まれる前は神様と共に歩んでいなかったでしょう。子どもが生まれることがきっかけとなって神様に立ち返り、天に召されるまで神様から離れることはなかった、それがエノクの生涯でした。私の父は若い頃、賭博場に出入りするような生活を送っていましたが、子どもができると、その方面のつきあいを一切やめました。ですから、子どもが生まれたことで人生が良い方向に変わるということは、私にはなるほどと思えるのです。ただ父と違うのは、父は悪い行為をやめてまともになろうとしたことですが、エノクの場合は良い人になったという書き方ではなく、神と共に歩んだということです。エノクにとって、子どもが生まれたということは神様からの贈り物、神様を思い起こさせ、神と共に歩もうと決心させる出来事でした。

 

 第三はノアです。彼は、箱舟をつくるという神様の命令を成し遂げました。彼は、兆候は見えないけれど洪水は起こるのだと確信しました。箱舟をつくることは、彼のすべての財産と労苦を投げ出すことを意味していました。人々は嘲笑したかもしれません。地方で伝道していると、語れば語るほど、クリスチャンは愚かだという声が聞こえるような気が時折します。しかし10年、20年と教会を保ち続ける中で、周囲の人々の声を超えて、神様がここで礼拝をささげ、伝道をしなさいと仰っておられるので、そのことばを恐れかしこんでやり続けるのです。ノアの信仰は、神の命令を命令と共に歩む人生でした。

 

 第四はアブラハムです。彼には二つの大きなエピソードがあります。一つは、故郷ウルを捨てて行き先を知らないのに旅立ったこと、もう一つは、ようやく与えられた一人息子イサクをささげる決心をしたことです。アブラハムは、過去のウルでの成功と将来の希望イサクを神の前に捨てました。1110に、その理由があります。私たちが信仰を持つ時、どうしても捨てなければ、しかし捨てられないものがあるものです。聖書は、それを神様の前に捨てていくなら、神様が与えて下さる新しい社会、都は本当に素晴らしいものだと語っています。111719には、再び与えられるイサクについて書かれています。神様は、イサクをささげたアブラハムの決心を無駄にはなさいませんでした。ささげられたイサクはアブラハムの人間的な子どもではなく、神様から改めて与えられた「我が未来」となったはずです。神様が与えて下さる祝福、将来のビジョンと共に歩むこと、神様が与えて下さる遥かな恵みをずっと見続ける、それ故に過去を捨てる、それがアブラハムの信仰でした。

 

 このように信仰について見ていくと、共通することは「神と共に歩む」ということです。私たちの日常生活が神と共に歩む、という思いの中にある時、私たちは信仰に生きているということになります。

 

 主なる神様、信仰を持つということは、神様が私たちと共にいて下さることを喜び、感謝することです。私たちそれぞれに与えられている信仰は、アベルやエノクたちとは違うでしょうけれど、私たち一人一人なりの「神と共に歩む」という人生をつくり、喜び、楽しんでいくことができますように。(2019128日礼拝 石岡キリスト教会臼井信博牧師)

 

 

☆本日武田師は、仙台の泉パークタウンキリスト教会でご奉仕にあたりました。