主の教えを喜びとする 詩篇1篇

 

新改訳2017

 

詩篇1

 

1:1 幸いなことよ悪しき者のはかりごとに歩まず罪人の道に立たず嘲る者の座に着かない人。

 

1:2 【主】のおしえを喜びとし昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。

 

1:3 その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結びその葉は枯れずそのなすことはすべて栄える。

 

1:4 悪しき者はそうではない。まさしく風が吹き飛ばす籾殻だ。

 

1:5 それゆえ悪しき者はさばきに罪人は正しい者の集いに立ち得ない。

 

1:6 まことに正しい者の道は【主】が知っておられ悪しき者の道は滅び去る。

 

 

 詩篇1篇には、対照的な二つのグループ(正しい者:13、悪しき者:45)について書かれています。「悪しき者」、「罪人」、「あざける者」は、原文では複数形で、彼らが正しい人を取り囲んで悪の道に引きずり込もうとしているのを想像していただければと思います。私たちはあざ笑う人たちの中にいると、自分も一緒にあざ笑いたくなる、そのようなことがないでしょうか。しかし正しい人の特徴は、芯がしっかりしていて、正しい道からそれることをしません。また、主の教え(ここではモーセ五書を指す)を喜びとします。

 

正しい人にとって、みことばは生活の中に生きているものであり、彼はみことばの一つ一つの意味をかみしめながら、そのみことばに沿った歩みをしようと考えているはずです。3節を見ると、正しい人が「流れのほとりに植えられた木」に例えられています。「流れのほとり」は、新改訳第三版は「水路のそば」となっています。確かに、原文では人工的につくられた用水路を指す言葉が使われ、「水路」とも訳せるのですが、木が人工的な水路の傍にあるよりも、木が水の近くにあることを強調していることを考慮し、新改訳2017では「流れのほとり」と訳されました。この詩篇が書かれたイスラエルは、中近東の非常に乾燥した地域であり、水は最も大切なものでした。つまりこの例えは、みことばと共に生きる者が最も必要な満たしを得られることを表しているのです。

 

 それに対し、悪しき者は自分が思ってもいない方向に転がっていくようです(45)。「さばきに立ち得ない」、現代の日本に生きる私たちの感覚だと、「さばき」に対しネガティブなイメージがあるかもしれません。しかし詩篇の中では逆です。詩篇の中では、人々の神様への訴えが書かれています。支配者に搾取されている貧しい人々の叫びとか、悪しき者から命をねらわれている人の訴えが聞かれること、これを詩篇では「さばき」と言っているわけです。しかし悪しき者は訴えを聞いてもらおうとしない、さばいてほしくありません。むしろ自らの悪が明るみに出される「さばき」を嫌って、神様からますます離れるようになっていきます。悪しき者の大きな特徴は、神様から身を隠すことです。

 

 「正しい」(6)の原語(へブル語)は「ツァディーク」ですが、旧約聖書でこの言葉が使われた人物はノアだけです。つまり、この言葉は神様の高い基準における正しさを表しているのです。例えば新改訳第三版でヨブは「潔白で正しく」と訳されています(ヨブ11)が、新改訳2017では「誠実で直ぐな」と変更されています。これはヨブに対して「ツァディーク」が使われていないことを明らかにするための変更です。あのヨブでさえ、詩篇1篇の「正しい人」の基準に至っていないことがわかります。

 

 ですから、私たちは「正しい人」に到底あてはまらないでしょう。むしろ聖書は「正しい者」と「悪しき者」の対立を通して、私たちが「正しい者」ではないことを気づかせようとしているのではないでしょうか(Ⅱテモテ315)。そして私たちが「正しい人」の基準に近づく第一歩は、みことばに親しむことだと思います。みことばは、流れのほとりにある木のように、私たちに最も必要な満たしを与えることができるのです。新しい一年も、神様のみことばを聞きつつ歩んでいきたいと思います。

 

 「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です(詩篇119105)」。

 

天の父なる神様、あなたは私たちに今年もいつも適切なみことばを与えて下さいました。主よ、どうぞ新しい一年もあなたのみことばによって私たちを導いて下さい。(20191229日歳晩礼拝 武田遣嗣牧師)