混沌で輝く真実 使徒の働き21章27~40節

 

【新改訳2017

 

使

 

21:27 ところが、その七日の期間が終わろうとしていたとき、アジアから来たユダヤ人たちは、パウロが宮にいるのを見ると、群衆をみな扇動して、彼に手をかけ、

 

21:28 こう叫んだ。「イスラエルの皆さん、手を貸してください。この男は、民と律法とこの場所に逆らうことを、いたるところで皆に教えている者です。そのうえ、ギリシア人を宮の中に連れ込んで、この神聖な場所を汚しています。」

 

21:29 彼らは、エペソ人のトロフィモが町でパウロと一緒にいるのを以前に見かけていて、パウロが彼を宮に連れ込んだと思ったのである。

 

21:30 そこで町中が大騒ぎになり、人々は殺到してパウロを捕らえ、宮の外へ引きずり出した。すると、ただちに宮の門が閉じられた。

 

21:31 彼らがパウロを殺そうとしていたとき、エルサレム中が混乱状態に陥っているという報告が、ローマ軍の千人隊長に届いた。

 

21:32 彼はただちに、兵士たちと百人隊長たちを率いて、彼らのところに駆けつけた。人々は千人隊長と兵士たちを見て、パウロを打つのをやめた。

 

21:33 千人隊長は近寄ってパウロを捕らえ、二本の鎖で縛るように命じた。そして、パウロが何者なのか、何をしたのかと尋ねた。

 

21:34 しかし、群衆はそれぞれに違ったことを叫び続けていた。千人隊長は、騒がしくて確かなことが分からなかったので、パウロを兵営に連れて行くように命じた。

 

21:35 パウロが階段にさしかかったとき、群衆の暴行を避けるために、兵士たちは彼を担ぎ上げなければならなかった。

 

21:36 大勢の民衆が、「殺してしまえ」と叫びながら、ついて来たからである。

 

21:37 兵営の中に連れ込まれようとしたとき、パウロが千人隊長に「少しお話ししてもよいでしょうか」と尋ねた。すると千人隊長は、「おまえはギリシア語を知っているのか。

 

21:38 では、おまえは、近ごろ暴動を起こして、四千人の暗殺者を荒野に連れて行った、あのエジプト人ではないのか」と言った。

 

21:39 パウロは答えた。「私はキリキアのタルソ出身のユダヤ人で、れっきとした町の市民です。お願いです。この人たちに話をさせてください。」

 

21:40 千人隊長が許したので、パウロは階段の上に立ち、静かにするよう民衆を手で制した。そして、すっかり静かになったとき、ヘブル語で次のように語りかけた。

 

 

 パウロは、エペソ人トロフィモと街を歩いていただけなのに、エペソ人を神殿に連れ込んだという誤解を受けて捕えられました(29)。この言いがかりをつけた「彼ら」は、アジア(地中海沿岸の地域)から来たユダヤ人です。パウロは、アジア(特にエペソ)でイエス様の福音を宣べ伝えていました。その時からのパウロの反対者がおそらく「彼ら」であり、敵対者パウロが捕えられるなら、真理でなくても良いと考えていたのだと思います。そして、この時期は五旬節と言って、世界中のユダヤ教信者がエルサレムに集まっていたと言われています。彼らの中には、パウロを疎ましく思っている人々が大勢いて、アジアから来たユダヤ人の誤解を信じてしまいました(30)。客観的事実や証拠には目を向けず、信じたいことを信じる、これが自分を神様とする罪人の特徴ではないでしょうか。

 

 さて、パウロが殺されそうになっている時、千人隊長が現れました。当時、エルサレムはローマ帝国の支配下にあり、ローマ軍が駐屯していたところはアントニオ要塞と呼ばれていました。アントニア要塞は神殿の真横にあったので、千人隊長は騒ぎが起きればすぐ神殿に行くことができました。千人隊長は、パウロが何者で何をしたのかも知りませんでした。しかし大群衆の中で、彼だけが真理を求めていました(33)。ユダヤ人は神様とそのみことばを知っていましたが、真理を求めようとはしません。それぞれが勝手に正義を叫んでいました。しかし、聖書も神も知らない千人隊長がここで真理を追究しようとしているのは、私たちが考えなければならないことかもしれません。教会に来て、神とそのみことばを知っている私たちこそ、自分の心を探らなければならないのではないでしょうか。私たちは、神の真理のみことばを本当に求めているのか、自分を神様としていないか、聖書の一部だけを信じて後は自分の主張を通していないか、もしそうなら今日の箇所のような混沌が待っています。人は自分が正しいと思うと同時に、心のどこかで自分は間違っていると思っているものです。私たちの内側には、こうした相反する思いがあります。これを素直に認めて神の前に悔い改め、神の愛を受け取る時、私たちは救われるのです。

 

 パウロは非常に冷静でした(37)。彼は千人隊長に慈悲を乞うのではなく、「私があなたに話しかけることは正しいことでしょうか」(ギリシャ語原文)と敬意をこめ、落ち着いて話しかけました。また普段話している言葉ではなく、千人隊長が理解できるギリシャ語を使いました。パウロがこのような状況でもなお、真理を知る者が持っている平安に溢れていたことがわかります。

 

 22章からは、パウロがユダヤ人たちに福音を語り始めます。自分を殺そうとしていたユダヤ人に対する、いのちがけのメッセージです。その冒頭で彼は、自分がもともと迫害者で、過ちを犯す者であることを告白します。パウロは皆が罪人であると認めているのです。彼は監禁状態にありましたが、その心は真理によって自由でした。むしろ、パウロを陥れたユダヤ人たちの方が苦しいのです。自分だけが正しいという檻の中で、もがき続けなければならないからです。真理は私たちを自由にします。しかしその真理は、私たちの内側にはありません。神とそのみことばの中にあるのです。

 

 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです(ヨハネ146)。」

 

天の父なる神様、義人はいない、一人もいないとみことばにある通り、私たちはどこか間違っているものです。しかし、真の真理であられるイエス・キリストを、私たちのもとに送って下さったことをありがとうございます。このイエスによって、私たちは自分の行くべき道を教えられ、真理を知り、永遠のいのちを得ることができます。主よ、どうぞこのイエス、またみことばに聞き従い、羊のようについていくことができるように助けて下さい。(2020119日礼拝 武田遣嗣牧師)