天に主人を持つ コロサイ人への手紙3章18~4章1節

 

【新改訳2017

 

コロ

 

3:18 妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。

 

3:19 夫たちよ、妻を愛しなさい。妻に対して辛く当たってはいけません。

 

3:20 子どもたちよ、すべてのことについて両親に従いなさい。それは主に喜ばれることなのです。

 

3:21 父たちよ、子どもたちを苛立たせてはいけません。その子たちが意欲を失わないようにするためです。

 

3:22 奴隷たちよ、すべてのことについて地上の主人に従いなさい。人のご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れつつ、真心から従いなさい。

 

3:23 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。

 

3:24 あなたがたは、主から報いとして御国を受け継ぐことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。

 

3:25 不正を行う者は、自分が行った不正を報いとして受け取ることになります。不公平な扱いはありません。

4:1 主人たちよ。あなたがたは、自分たちも天に主人を持つ者だと知っているのですから、奴隷に対して正義と公平を示しなさい。

 

 

 コロサイ人への手紙の中でパウロが強調していることは、イエス・キリストこそ万物の支配者、主権者であるということです。そして「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています」(23)ということばの中に、彼が伝えようとしたメッセージが込められていると思います。

 

さて、今日の個所でパウロは、クリスチャンが社会の中でどのように生きるべきかについて、三つの人間関係(夫婦、親子、主人と奴隷の関係)をピックアップしています。パウロはこれとほぼ同じ教えを、エペソ人への手紙56章の中でも書いています。なぜ彼はこれら三つの人間関係について、二回も教えたのでしょうか。それだけ大事だったということもあるでしょうが、聖書学者たちは、当時の地中海世界、ギリシャ語が話されていた世界で、よく教えられていた教えを基に書かれたのではないかと説明しています(「世帯の規則」)。古代では、世帯或いは大家族が社会生活の中心でした。生産活動は大家族の中で行われ、家族が社会生活の場であったわけです。ですから、パウロは、コロサイやエペソの人々に、家庭や職場でどのように生きていくべきかを教えようとしたのだと思います。この「世帯の規則」については、アリストテレスも「政治学」の中で語っています。彼は都市国家を構成する重要な要素として大家族が中心となり、家長が強い権限を行使して家族を導いていく必要がある、そして夫婦、親子、主人と奴隷の関係の頂点に立つのが家長だとし、これはギリシャ語を話す世界で繰り返し教えられてきたと思います。パウロはそういう「世帯の規則」のことを考えつつ、信仰に立って新しいいのちを吹き込んでいる面があると思うのです。パウロにとって、大家族がしっかりした家族になることよりも、信仰を持った一人一人が神様の前に、キリストにあって歩むことが大切だと考えていたのでしょう。

 

まず、最初に教えられているのは、夫婦の教えです。パウロはガラテヤ328で男女の平等を強調しています。それなのに、どうしてここでは妻に対して服従を求めているのでしょうか。この部分は、別人が書いたのではないかと考える人もいますが、おそらくパウロ自身は、キリストの前に両性は平等であると信じながらも、しもべのような人になる、それがキリスト者としてふさわしい生き方であると信じていた面があったのでしょう。「従いなさい」は、自らの意思で従いなさいという意味があります。それに対し、子どもや奴隷に対しては、より強い服従を促す意味の言葉が使われ、すべてのことについて従いなさいと教えています。さらに夫に対しては、与える愛で妻を愛するように教えています。

 

次に親子関係について見ていきましょう。パウロは子どもたちに、家長である父親だけでなく、両親に従うよう教えています。これには、ユダヤ人としてパウロが、モーセの十戒を心に刻んでいたことが関係しているでしょう。子どもは何歳まで親に従う必要があるのか、という疑問がわくかもしれません。同じような教えが書かれているエペソ人への手紙と照らし合わせて読むと、親から教育を受けている途上にある者と解釈できるかもしれません。家長の権限が絶大だった古代ローマで、親子関係が相互的でなければならないと主張した点は、非常に革新的です。

 

三番目の教えは、奴隷と主人に関することです。聖書には奴隷制度が当然のように書かれていますが、これは神様がこれを認めているというより、旧約聖書の一夫多妻制度のように、本来罪深い制度ですが、古代では許容されていたことを聖書がそのまま記しているのだと思います。当時、ギリシャ語を話す人々は、ギリシャ語を話さない人を見下す面がありました(コロサイ311)。スキタイ人はスラブ人の先祖であるとも言われ、スラブはslave(奴隷)の語源となっています。当時、地中海地域で奴隷とされていた人の多くはこのような人々だったかもしれないし、コロサイの教会にもこのような人種的背景を持った人がいたのかもしれません。そしてパウロは、奴隷と主人に関する教えを一番長く書いています。多分一緒にコロサイの教会に渡されたであろう「ピレモンへの手紙」のことを聞いた人が、パウロは奴隷に甘すぎるという思いを持ちかねないことを懸念したのかもしれません。さらにパウロは、主人に対して、神の前では主人もしもべであると教えています。これら三つの人間関係を通し、パウロは私たちは皆、社会的な関係では人の上に立つことがあっても、すべて神様の前ではしもべのような者であると教えていると思います。

 

最後に、三国清美さんというシェフの話を紹介します。この方は18歳から帝国ホテルの厨房で働き、料理長であった村上信夫さんの薫陶を受け、やがてヨーロッパに渡って料理の腕を磨いたそうです。1985年帰国、四谷でレストランを開業しました。三国さんは、日本のフランス料理に日本の食材を使ったことで知られています。それは彼がフランスで修業していた時、師匠であったシェフの助言━「我々フランス人はクリームやチーズを食べて育ってきたが、お前は味噌、コメ、醤油で育ったんだろう。日本に戻ったら、お前が心から美味いと思う料理を作りなさい。それは良いフランス料理を作る上で一番大切なことだ」、があったからです。三国さんは日本の料理界の常識や慣習に従ったのではなく、自分がフランスで師事した先生の教えに忠実に従ったのでしょう。ここには、一つの比喩があります。パウロが今日の個所で教えている「天の主人を持つ」ということも、三国シェフの生き方に通じる面があると思うのです。パウロは当時の大家族制度を、すべて良いと思っていたわけではないでしょう。しかし、簡単に変えられない社会制度を覆そうとはしませんでした。もっと大切なことがあると信じていたのでしょう。そして時間はかかりましたが、パウロの信じていたことはやがてキリスト教社会に浸透していき、私たちはそうやって作られてきた伝統の恩恵(両性の平等を尊重する、人種、階級差別の克服など)を受けていると思います。

 

しかし、それだけではありません。人の命令に従って生きることを多くの人は嫌がるかもしれませんが、イエス・キリストはそういう道を受け入れて下さいました。私たちもそれに倣って生きるべきだと、パウロは教えていると思います。

 

恵み深い愛する天の神様、コロサイ人への手紙を通して、本当に色々なことを教えられますが、どうぞまた、イエス様が万物の主権者であることを信じ、しもべになられたイエス様のことを思いつつ歩み続けることができるように、お導き下さい。また、体調を崩しておられる方を、どうか支えて下さいますように。感染症が広がり、不安を感じますが、主が私たちの歩みを支えて下さいますように心からお願いいたします。(202029日礼拝 取手キリスト教会富田雄治牧師)

 

☆本日は取手キリスト教会との講壇交換で、富田雄治牧師がメッセージを取り次いでくださいました。