励ましの御声 使徒の働き23章1~11節

 

新改訳2017

 

使

 

[ 23 ]

 

23:1 パウロは、最高法院の人々を見つめて言った。「兄弟たち。私は今日まで、あくまでも健全な良心にしたがって、神の前に生きてきました。」

 

23:2 すると、大祭司アナニアは、パウロのそばに立っていた者たちに、彼の口を打つように命じた。

 

23:3 そこで、パウロはアナニアに向かって言った。「白く塗った壁よ、神があなたを打たれる。あなたは、律法にしたがって私をさばく座に着いていながら、律法に背いて私を打てと命じるのか。」

 

23:4 すると、そばに立っていた者たちが「あなたは神の大祭司をののしるのか」と言ったので、

 

23:5 パウロは答えた。「兄弟たち。私は彼が大祭司だとは知らなかった。確かに、『あなたの民の指導者を悪く言ってはならない』と書かれています。」

 

23:6 パウロは、彼らの一部がサドカイ人で、一部がパリサイ人であるのを見てとって、最高法院の中でこう叫んだ。「兄弟たち、私はパリサイ人です。パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。」

 

23:7 パウロがこう言うと、パリサイ人とサドカイ人の間に論争が起こり、最高法院は二つに割れた。

 

23:8 サドカイ人は復活も御使いも霊もないと言い、パリサイ人はいずれも認めているからである。

 

23:9 騒ぎは大きくなった。そして、パリサイ派の律法学者たちが何人か立ち上がって、激しく論じ、「この人には何の悪い点も見られない。もしかしたら、霊か御使いが彼に語りかけたのかもしれない」と言った。

 

23:10 論争がますます激しくなったので、千人隊長は、パウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと恐れた。それで兵士たちに、降りて行ってパウロを彼らの中から引っ張り出し、兵営に連れて行くように命じた。

 

23:11 その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」と言われた。

 

 

 まず、パウロがなぜ最高法院で裁判を受けるまでになったのか、これまでの流れを確認したいと思います。

 

①パウロが異邦人を神殿に連れ込んだと誤解を受ける(使徒2128

 

②殺される寸前で、千人隊長の介入があった(使徒2132)。

 

③パウロは群衆に語りかけた(使徒22120)。

 

④パウロの証(弁明)を聞いて、群衆は激怒した(使徒222122)。

 

⑤千人隊長はパウロに鞭を打って自白させようとしたが、彼はローマ市民権を持っていた(使徒2225)。

 

⑥千人隊長は最高法院を招集して、パウロを裁判にかけた(使徒2230)。

 

 この裁判は、パウロには非常に不利でした。大祭司は、明らかにパウロに敵対していましたし、裁判に集ったユダヤ人は、イエス様を宣べ伝えるパウロを殺したいと考えていたでしょう。このような状況下で、パウロは正々堂々と戦うと言うより、作戦を変更することにしました(6)。パウロが最高法院に集った人を観察すると、一部がパリサイ派、一部がサドカイ派であることに気づきました。両者は、今はパウロを殺すために共闘していますが、普段は対立していました。サドカイ派はユダヤの権力者層に多く、ユダヤを支配するローマと上手く付き合っていました。大祭司アナニヤはサドカイ派に属し、2千年前ヨセフスが書いた「ユダヤ古代史」によれば、彼がローマの高官に賄賂を渡していたことが記録されています。彼らは現世主義で、死者の復活、天国と地獄、天使と悪魔の存在を否定していました。一方、パリサイ派はローマが自国を支配することに反対し、死者の復活、天国と地獄、天使と悪魔の存在を肯定し、旧約聖書すべてが神様のみことばだと信じていました。パウロは彼らに議論をさせて、この場を切り抜けようとしました。このパウロの問題解決の方法は意外かもしれません。しかし神様は、時に私たちにすでに与えられている知恵、賜物、人の助けを用いて、問題を解決されることを願っておられるのではないでしょうか。神様が共におられるという平安の中で目の前の状況を観察し、あなたが問題解決のためにできる小さな一歩を踏み出すことを、主は望んでおられると思います。

 

 先週、大洗キリスト教会で、勝田教会の鈴木先生に来ていただいて、伝道セミナーを行いました。その中で、神様の愛を伝えたい身近な一人を想像し、その人に伝えるためにどうしたらよいのか考える時間がありました。私は、神様の愛を伝えたいという思いは、拒絶されるかもしれない、期待を裏切られるかもしれないという思いと表裏一体ではないかと気付きました。しかし拒絶は悲しみを恐れて未来に期待できない、これは何と悲しいことだろうとも思わされました。また先週私は、妻と「パラサイト」という映画を見に行きました。主人公とその家族が、手段を選ばずに貧困から抜け出そうとする様子がコミカルに描かれています。その物語の途中で、貧困からの脱却をあきらめた主人公の父親が、こんなことを言いました。「無計画こそ最高の計画だ」。計画をするから絶望し、裏切られたような気持になる、それはもうごめんだから、計画も期待もしないと言うのです。しかし私たちは、今日の個所で問題に立ち向かうパウロに、絶望やあきらめを感じるでしょうか。彼はキリストにあって期待をし、自分の知恵を用い、困難を乗り越えようとしました。

 

 さて、議会は大混乱に陥りましたが、神様はローマの千人隊長を用いて、パウロをその場から救い出されました。私たちの「一生懸命」の中に働いて下さる神様の御業を、私たちは心から感謝したいと思います。また、神様はすべての上に立つ支配者であることを、教えられるのではないでしょうか。大国ローマでさえ、神様が用いる杖にすぎない(参考:「アッシリアはわたしの杖(イザヤ105)」)、この全能なる方が自分の主であるということを、私たちは心から信じ、希望を持って歩んでいこうではありませんか。

 

 裁判が終わった後、神様はパウロに「勇気を出しなさい」と語りかけられました。人は騒動の渦中にある時は気丈に振舞いますが、それが終わって一人になった時、疲労を感じ、人々から向けられた怒り、憎しみや悲しみで立ち上がれない思いになるものです。パウロは留置場で一人、誰からの励ましもない状況でした。その中で「勇気を出しなさい」ということばが届けられたのでした。このみことばに、パウロはどれほど励まされたでしょうか。神様は、最も必要なタイミングでパウロにこのみことばを与え、試練に立ち向かう新しい力を与えられたのです。私たちもみことばに心を留め、希望を持って歩んでいきたいと思います。

 

 天の父なる神様、それぞれがみことばをいただき、また新しい一週間が始まります。あなたに与えられたもので日々歩んでいる私たちが、いただいたものを感謝して用い、神様の栄光を現すことができるように、どうぞ共にいて下さい。(2020223日礼拝 武田遣嗣牧師)