イエスは生きている 使徒の働き25章13~27節

 

【新改訳2017

 

使

 

25:13 数日たって、アグリッパ王とベルニケが、フェストゥスに敬意を表するためにカイサリアに来た。

 

25:14 二人がそこに何日も滞在していたので、フェストゥスはパウロの件を王に持ち出して、次のように言った。「フェリクスが囚人として残して行った男が一人います。

 

25:15 私がエルサレムに行ったとき、祭司長たちとユダヤ人の長老たちが、その男のことを私に訴え出て、罪に定めるよう求めました。

 

25:16 そこで、私は彼らにこう答えました。『訴えられている者が、告発する者たちの面前で訴えについて弁明する機会が与えられずに、引き渡されるということは、ローマ人の慣習にはない。』

 

25:17 それで、訴える者たちがともにこちらに来たので、私は時を移さず、その翌日に裁判の席に着いて、その男を出廷させました。

 

25:18 告発者たちは立ち上がりましたが、彼について私が予測していたような犯罪についての告発理由は、何一つ申し立てませんでした。

 

25:19 ただ、彼と言い争っている点は、彼ら自身の宗教に関すること、また死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロは主張しているのです。

 

25:20 このような問題をどう取り調べたらよいか、私には見当がつかないので、彼に『エルサレムに行き、そこでこの件について裁判を受けたいか』と尋ねました。

 

25:21 するとパウロは、皇帝の判決を受けるまで保護してほしいと訴えたので、彼をカエサルのもとに送る時まで保護しておくように命じました。」

 

25:22 アグリッパがフェストゥスに「私も、その男の話を聞いてみたいものです」と言ったので、フェストゥスは、「では、明日お聞きください」と言った。

 

25:23 翌日、アグリッパとベルニケは大いに威儀を正して到着し、千人隊長たちや町の有力者たちとともに謁見室に入った。そして、フェストゥスが命じると、パウロが連れて来られた。

 

25:24 フェストゥスは言った。「アグリッパ王、ならびにご列席の皆さん、この者をご覧ください。多くのユダヤ人たちがみな、エルサレムでもここでも、もはや生かしておくべきではないと叫び、私に訴えてきたのは、この者です。

 

25:25 私の理解するところでは、彼は死罪に当たることは何一つしていません。ただ、彼自身が皇帝に上訴したので、私は彼を送ることに決めました。

 

25:26 ところが、彼について、わが君に書き送るべき確かな事柄が何もありません。それで皆さんの前に、わけてもアグリッパ王、あなたの前に、彼を引き出しました。こうして取り調べることで、何か私が書き送るべきことを得たいのです。

 

25:27 囚人を送るのに、訴える理由を示さないのは、道理に合わないと思うのです。」

 

パウロをローマ皇帝のもとに送ることになったフェストゥスには、一つの悩みがありました。どういう罪状でパウロを送るかということです。しかしパウロが無罪だからといって放免すれば、訴えたユダヤ人たちが怒り出すことになります。そんな時、アグリッパ王という、ガリラヤ地方を治めていたユダヤ人の王が表敬に訪れました。そこでフェストゥスは、アグリッパ王ならユダヤ人がパウロを罪人とする理由がわかるかもしれないと考えました。このアグリッパ王は正式にはヘロデ・アグリッパ2世と言い、父は使徒ヤコブを殺し(使12)、大叔父はバプテスマのヨハネの首をはね(ルカ99)、曾祖父はイエス様が生まれた時に、ベツレヘムの2歳以下の子どもを殺した(ルカ2)人物です。ですから、アグリッパ王はキリスト教と非常に因縁の深い家系に生まれたことがわかります。こんな人物がパウロを公平な目で裁くことができるのか、これが26章からの注目点になってきます。

 

 では、フェストゥスとアグリッパ王の対話を見ていきたいと思います。裁判の争点は、イエスが生きているか否かです(19)。初めの裁判では、争点はパウロが神殿に異邦人を連れ込んだか否かでした。しかしそれはいつの間にか影を潜め、本質的な問題が浮上してきました。

 

イエスは生きていると主張し続けた結果、パウロは多くの不利益を被りましたが、真実のみことばを持っていました。パウロは以前、キリスト者を迫害する者でした。キリストは生きていない、十字架にかかって死んだと考えていました。しかしイエス様の御声を聞き、イエス様は生きていると確信しました。この改心のエピソードは使徒の働きで3回も語られ、この時のみことばはそれほど衝撃的であり、人生のすべてを変えてしまうほどのものでした。パウロはこの時、イエスは生きているという真理を掴んだのです。これと対照的なのは、真理を掴んでいないユダヤ人たちと総督フェストゥスではないでしょうか。ユダヤ人たちは、パウロを罪に定める真実の証拠を持っていませんでした。また、総督はパウロを法廷に送る真実の理由を持っていませんでした。

 

今日、皆さんにお勧めしたいのは、真理のみことばを土台として生活することです。最近読んだ本の中に、「マイクさんの証」という文章があったので、その内容を紹介したいと思います。マイクはニューヨークでドアマンをしています。彼は大型マンションで働く15人のドアマンの一人で、担当する棟にはおよそ100家族が住んでいます。彼は自分の担当する棟に住む一人一人の名前を覚え、荷物の積み下ろしを手伝い、居住者のところに遊びに来たお客を歓迎したりすることにプライドを持っています。しかし、マイクのサービスを受けている住民の殆どは専門職やビジネス業界に身を置く人で、自分の仕事がドアマンでなくて何よりと思っていました。マイクはそれを気にせず、ドアマンの仕事に備わった尊厳を、しっかり理解していました。彼は世の基準ではなく、聖書の基準に生きていました。聖書は決して、サービス業を低く見ていません。イエス様は大工でしたし、福音宣教に用いられたのは、漁師の弟子たちでした。聖書は、すべての仕事に尊厳があると教えています。また、マイクは仕事そのものから自尊心や救いを得ていたのではありません。もしそうなら、見下されている時点でこの仕事を辞めていたかもしれません。彼は真理のみことばから救い、自尊心、知恵、平安を得ていました。ですから、彼は人から差別されているかもしれないと怯える必要はなく、ただ隣人を愛しなさいというみことばに即した仕事に集中することができたのです。信仰者として働くことは、牧師にならなくてもいいのです。今神様から与えられている場所で、みことばを基準にした歩みをするなら、神様は喜んで下さいます。

 

現代は基準を失った社会と言われています。昔は、社会や地域のルールを守ることが正しさの基準でした。それが時と共に変わり、科学や人間の理性がはじき出す答が正しさの基準になりました。そして今は、人それぞれに正しさがあると訴え、宗教は何でもいい、自分の好きなように生きれば良いと考える人が多いと思います。しかし水の中からすくい出された魚が自由ではないように、基準を失った社会は息苦しく、混乱に満ちていくのではないかと思います。人には、この世界を創造された神様からみことばが与えられています。私たちはそれを基準にして生きることができるのです。それは私たちを縛り付けるのではなく、自由にします。みことばを感謝して受け取り、教会として個人として判断をしていければと思います。パウロを導いた主は、今日も生きておられます。そしてみことばを語って下さっています。それを信じ続け、実生活に生かす者でありたいと思います。

 

天の父なる神様、みことばをありがとうございます。みことばは日々の糧、いのちのパンです。しかし忙しい中で、みことばを読むことを忘れてしまうこともあるでしょう。ここにいる一人一人が、みことばを生活の中に根付かせていくことができますように。イエスさまのいのちに代えて私たちに届けられた福音を、私たちはどれほど真剣に受け取っているでしょうか。主よ、今のような緊急事態のさ中にあっても、福音から得られる平安、信仰、希望、愛をお与えください。(202045日礼拝 武田遣嗣牧師)