もしキリストがよみがえられたなら コリント人への手紙15章12~19節

 

【新改訳2017

 

Ⅰコリ

 

15:12 ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。

 

15:13 もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。

 

15:14 そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。

 

15:15 私たちは神についての偽証人ということにさえなります。なぜなら、かりに死者がよみがえらないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずなのに、私たちは神がキリストをよみがえらせたと言って、神に逆らう証言をしたことになるからです。

 

15:16 もし死者がよみがえらないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。

 

15:17 そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。

 

15:18 そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。

 

15:19 もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。

 

15:57 しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。

 

15:58 ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。

 

 

今日は、キリストの復活から30年経ったコリントの教会についてお話をします。2000年前、コリント周辺では、「人は死後、魂だけになる。肉体は魂を閉じ込める檻のようなもの」と考えられていました(ギリシャ思想)。コリント教会の一部の人は、そのような思想と聖書を混ぜてしまい、人間の体は復活しない、魂だけが復活すると考えたのです。彼らに対し、パウロは非常に論理的に反論しています(13)。もし人間が体を伴ってよみがえらないと言うなら、人となってこの世に来られたイエス様もよみがえらなかったはずだと言うのです。逆もまた然り、人としてイエス様がよみがえられたのだから、人である私たちもよみがえることができる、これが聖書のメッセージです。

 

 ヨハネ11章には、弟を亡くしたマルタとマリヤ姉妹に、イエス様がそれぞれにふさわしい慰めを与えられたことが記されています。イエス様は、姉のマルタには力強い神様のことば(1125)を語りました。またマリヤには、何も語らず傍で涙を流されました(1135)。それは人となり、人の苦しみを理解していたイエス様だからこそ流すことができる涙でした。イエス様が神であり人である、私たちはクリスチャンの歩みの中でこの恵みを少しずつ知っていきます。しかし、イエス様が神であり人である最大の恵みは、私たちを罪から救うことができるということです。

 

 私たちはなぜ死ぬのでしょうか。聖書には「罪からくる報酬は死」と書かれています。つまり私たちの内側に罪があるから、私たちは死ぬのです。罪、または死から救い出すことができる人は、罪のない人間だけです。ですから、罪のない神が人として降りてこられるしかなかったのです。神であり人であるイエス様が、唯一私たちを罪から救いだすことができるお方です。イエス様は罪のない人間として十字架にかけられたから、私たちの罪の身代わりになることができたのです。そして3日目によみがえり、死に勝利されました。

 

 13,14節は、人間の復活を信じないなら、信仰や宣教のことばが崩れ去ることが書かれています。しかし、もし私たちが自分やキリストの復活を強く信じるなら、そこには大きな力が働きます(1510)。パウロの宣教の原動力は、自分が救われている、後によみがえるのだという恵みでした。聖書によれば、私たちが救われていて後によみがえるということを知ることは、今を生きる原動力です(57,58)。クリスチャンの歩みは、もう私は救われているから、自分の人生は自分のために使おうという歩みではありません。もし信仰者が自身に与えられたこの深い恵みを理解するなら、その恵みに応えて神と人を愛そう、励もうという気持ちになれるのです。皆さんの日頃の原動力は何でしょうか。私たちが救われていて、またよみがえりの希望を持つことは、尽きることのない原動力になります。私たちが行ったことは、次の世代には忘れ去られてしまうかもしれません。しかし主は、私たちが神と人を愛するために行ったあらゆることを覚えておられます。私たちが天の御国に着いた時、主は私たちの労苦を共に喜んで下さるでしょう。神により救われ、よみがえりの希望を持っている、この恵みを深く深く覚えつつ、それを原動力にして毎日を歩んでいきたいと思います。

 

 天の父なる神様、復活への希望が与えられていることをありがとうございます。イエス様は魂だけ復活されたのではなく、体を伴って復活されました。それは罪人が死ではなく、いのちに移されるためです。だから私たちは、今日の日をどうせ死ぬのだからと絶望の中で生きるのではなく、神の愛と恵みに応え、それを原動力にして歩むことができますように助けて下さい。(2020412日礼拝 武田遣嗣牧師)