もしかするとこの時のため 使徒の働き26章1~18節

 

【新改訳2017

 

使

 

26:1 アグリッパはパウロに向かって、「自分のことを話してよろしい」と言った。そこでパウロは、手を差し出して弁明し始めた。

 

26:2 「アグリッパ王よ。私がユダヤ人たちに訴えられているすべてのことについて、今日、王様の前で弁明できることを幸いに思います。

 

26:3 特に、王様はユダヤ人の慣習や問題に精通しておられます。ですから、どうか忍耐をもって、私の申し上げることをお聞きくださるよう、お願いいたします。

 

26:4 さて、初めから同胞の間で、またエルサレムで過ごしてきた、私の若いころからの生き方は、すべてのユダヤ人が知っています。

 

26:5 彼らは以前から私を知っているので、証言しようと思えばできますが、私は、私たちの宗教の中で最も厳格な派にしたがって、パリサイ人として生活してきました。

 

26:6 そして今、神が私たちの父祖たちに与えられた約束に望みを抱いているために、私はここに立って、さばかれているのです。

 

26:7 私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕えながら、その約束のものを得たいと望んでいます。王よ。私はこの望みを抱いているために、ユダヤ人から訴えられているのです。

 

26:8 神が死者をよみがえらせるということを、あなたがたは、なぜ信じがたいこととお考えになるのでしょうか。

 

26:9 実は私自身も、ナザレ人イエスの名に対して、徹底して反対すべきであると考えていました。

 

26:10 そして、それをエルサレムで実行しました。祭司長たちから権限を受けた私は、多くの聖徒たちを牢に閉じ込め、彼らが殺されるときには賛成の票を投じました。

 

26:11 そして、すべての会堂で、何度も彼らに罰を科し、御名を汚すことばを無理やり言わせ、彼らに対する激しい怒りに燃えて、ついには国外の町々にまで彼らを迫害して行きました。

 

26:12 このような次第で、私は祭司長たちから権限と委任を受けてダマスコへ向かいましたが、

 

26:13 その途中のこと、王様、真昼に私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と私に同行していた者たちの周りを照らしました。

 

26:14 私たちはみな地に倒れましたが、そのとき私は、ヘブル語で自分に語りかける声を聞きました。『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげの付いた棒を蹴るのは、あなたには痛い。』

 

26:15 私が『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、主はこう言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

 

26:16 起き上がって自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たことや、わたしがあなたに示そうとしていることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。

 

26:17 わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのところに遣わす。

 

26:18 それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。』

 

 

26章の時点で、パウロはおそらく2年半以上、無実の罪で囚人生活をしていました。彼は鎖に繋がれた囚人でしたが、その限定された状況の中で最大限、神様を証しました。パウロの姿を見た時、行動が限定された今だからこそ、私たちができることがあるのではないかと思わされます。パウロは弁明の後、ローマに移送されることが決まっていました。彼にとってこの弁明は、イスラエルでの最後の伝道の機会でした。パウロのように、今神様に求められていることは何か、それを考えて実行する者でありたいと思います。

 

 さて、弁明は三つの部分(改心前、イエス様との出会い、改心後)から成っています。パウロは元々、パリサイ人でした。パリサイ人は行いによる救いを信じる人たちです。ですからパウロは必死で聖書を学び、クリスチャンを迫害しました。彼は今まで自分が積んできた行いが自分を救いに導くと信じていたのです。しかしその後イエス様と出会った時、自分が積んできた行いは、神を迫害するものだったという事実を知ります。人の考える正しい行いは、人を天の御国へ連れていくことができない、それを強調するため、パウロは自身の過去を詳細に語っています。「とげのついた棒を蹴る」(14)とは、権威者に逆らうことを表しています。イスラエルでは、家畜を飼いならすためにとげのついた棒を使うことがあり、とげのついた棒を蹴るとは、家畜が牧者にたてつくことを意味しているのだそうです。パウロは、キリスト者を迫害することが正義だと信じて歩んできました。しかし、実は誤ったことをしている、そういう痛みが彼の中にあって、少しずつ彼を傷つけていたのでしょう。私たちも神様から遠く離れている時に、神様の臨在を深く感じている時には絶対言わない言葉を他人に言ってしまったり、絶対にしないことをしてしまうのではないでしょうか。そのような時、自分自身を傷つけていると感じたことがないでしょうか。しかもそのような時、私たちは傷ついた心の原因を自分に向けないで、周囲や環境のせいにしてしまうものです。私たちには自分の罪を認め、悔い改める勇気が必要です。それを認めなければ、罪は私たちの内側をむしばみ、痛みを与え続けるでしょう。パウロは自身の過ちを認めて、神の前に悔い改める者になりました。彼は罪の痛みから解放されたのです。心からの悔い改めは、救いには必ず必要なものです。17,18節は読点が続き、少し読みにくい箇所かもしれません。原文だと「わたしはあなたを彼らのところに遣わす。①彼らの目を開くため、②彼らを闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせるため、③彼らが信仰によって罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるため」という構成になっています。①パウロは、改心する前の自分の行いが神に敵対する行動だったことを知りました。そして自分の行いによっては救われないことを悟りました。もし自分の行いで救われるのだとしたら、その人の神は自分自身なのです。パウロは、イエスの恵みによる救いを受けて、目が開かれました。彼はその経験を通して、他の人々の霊的な目を開くために遣わされるわけです。②そして、パウロは人々を神に立ち返らせるために遣わされます。ただ霊的な目が開かれるだけでは、私たちは救われません。開かれた目で神の前に悔い改め、イエス様を自分の主としなければなりません。③「相続にあずかる」とは、私たちが神のこどもとされて、天の御国に入ることを表しています。ここから、罪を悔い改めてゆるしを得ることと、天の御国へ行くことは非常に密接な関係があることがわかります。

 

 パウロは、自分が囚人であることも神のご計画の一部だと信じていました。ですから、彼は囚人として神のためにできる最善を為したのです。私たちも感染症の影響で、活動の範囲が限定されているかもしれません。しかしこのような時こそ、自分が神に求められていることは一体何なのか考えてみましょう。私たちに与えられている聖書の福音は、神様の愛と私たちの罪深さ、その両方を教えてくれます。福音は、私たちに過大評価も過小評価もさせません。もし私たちが福音に生きているのであれば、愛されていない、何もできないといった過小評価や、できないことをできると言う過大評価から解放されるのではないでしょうか。それは、自分の本来の姿(使命)を知ることにつながります。

 

 パウロやエステルと同様に、私たちにも使命があるのではないでしょうか。この困難な状況でも、主と共に歩んでいきましょう。

 

 「みことばを宣べ伝えなさい。 時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」(Ⅱテモ42

 

時が悪いと感じてしまう今日ですが、主がこのような時こそ私たちに望んでおられることがある。それを今日教えられました。どうぞ、ここにいる一人一人に平安を与え、行くべき道を教えてください。(2020419日礼拝 武田遣嗣牧師)