礼拝とは何か 詩篇95篇1~11節

 

【新改訳2017

 

 

95:1 さあ【主】に向かって喜び歌おう。私たちの救いの岩に向かって喜び叫ぼう。

 

95:2 感謝をもって御前に進み賛美をもって主に喜び叫ぼう。

 

95:3 まことに【主】は大いなる神。すべての神々にまさって大いなる王である。

 

95:4 地の深みは御手のうちにあり山々の頂も主のものである。

 

95:5 海は主のもの。主がそれを造られた。陸地も御手が形造った。

 

95:6 来たれ。ひれ伏し膝をかがめよう。私たちを造られた方【主】の御前にひざまずこう。

 

95:7 まことに主は私たちの神。私たちはその牧場の民その御手の羊。今日もし御声を聞くなら

 

95:8 あなたがたの心を頑なにしてはならない。メリバでのように荒野のマサでの日のように。

 

95:9 あなたがたの先祖はそこでわたしを試みわたしを試した。わたしのわざを見ていたのに。

 

95:10 四十年の間わたしはその世代を退けそして言った。「彼らは心の迷った民だ。彼らはわたしの道を知らない。」

95:11 そのためわたしは怒りをもって誓った。「彼らは決してわたしの安息に入れない。」

 

今日は、礼拝について三つのポイントでお話をします。

 

 第一に、礼拝とは神様との人格的な出会いです。1,2節は、礼拝に大きな喜びがあることを教えています。旧約聖書の礼拝者は、ただ静かに、機械的にプログラムをこなしていたのではありません。讃美や祈りをささげる時、その心は喜び、神に向かっていました。礼拝のプログラムは招詞と祝祷以外、二つに分類できます。即ち人から神へ向かうもの(祈り、讃美、交読文)と、神から人へ向かうもの(聖書朗読、説教)です。これらを繰り返す中で、私たちは対話するように神様と出会うのです。旧約聖書の礼拝者は、この神との人格的出会いを喜んでいました。

 

 続いて3節の冒頭は、「なぜなら」が略されています。つまり35節には、なぜ神様と出会うことが喜びなのか、その理由が語られているのです。それは、神が偉大であるからです。今週、早朝に海へ散歩に行きました。雲の隙間から朝の日差しがまっすぐに下りているのを見て、きれいだなと思いました。そして、神様のつくられた世界に私は生きていると実感し、喜ぶことができましたし、私が神を礼拝するのはごく自然なことのように思えました。私は微熱で礼拝にも集えないひ弱な牧師ですが、神様は変わらず、疲れず、この美しい世界を保たれている偉大なお方です。コロナウィルスのことも含め、すべてが神様の御手の中で起こっています。このお方が礼拝を通して私たちに出会って下さるのですから、喜びを持って礼拝をささげたいと思います。

 

 第二に、礼拝とはひれ伏すことです(6)。もし私たちが神の偉大さを知っているなら、私たちは神様の前に、自然に身を低くすることでしょう。私たちが神様を喜べない、みことばが聞けない、主にあっての平安、喜びを感じられない最も大きな原因は、自分を大きくしすぎていることではないでしょうか。最近私がよくささげる祈りは、「神様、あなたの御前に来るのに、こんなに時間がかかってしまいました」という祈りです。やらなければならないことで頭がいっぱいになると、私は落ち着きを失くしてしまうことがあります。やっと落ち着いて祈ろうとした時には、もうかなり時が経っているのです。そして、すべて自分で何とかしようとしていた、自分を大きくしすぎていたことに気がつきます。6節のひれ伏す、膝をかがめる、膝まづくということばは、全部神の御前に自分を低くするということです。日常生活の中で大きくなりすぎていた自分の中心を神様に据えなおす、これが礼拝です。礼拝を通して、私たちは神と人との本来の関係に立ち返ることができるのです。

 

 7節冒頭も3節同様、「なぜなら」が略されています。私たちがなぜ神にひれ伏すのか、それは神様が私たちの羊飼いだからです。偉大な神であるのに、小さな私たちの信仰を喜び、小さな私たちが悲しむ時、共に涙を流して下さるというのです。神は人間には理解が及ばないほど偉大なお方です。だから私たちは、礼拝を通して神様にひれ伏すのです。

 

 第三に、礼拝とはみことばを聞き、それに応答することです。711節は16節と違い、かなり強い、否定的なことばが使われています(心を頑なにしてはならない、彼らはわたしの道を知らない、決してわたしの安息に入れない)。このようなことばを使うことで、礼拝におけるみことばの重要性を強調しているのです。みことばに従うか否か、これはイスラエルにとって常に明暗を分けることでした。私たちは礼拝のみことばを真摯に聞き、それに応答する必要があります。特に、メリバでの出来事(出エジプト1717)のような困難な状況下でみことばに従えるか否か、信仰の真価が問われます。社会が不安定な時こそ、みことばに聞き従う信仰者でありましょう。

 

 天の父なる神様、みことばをありがとうございます。人は弱く、従えば揺れ動きますが、少しも変わることなく偉大で、愛に満ちておられる主を心から讃美します。飲み水が少なくなると神様への信仰が揺らいだイスラエルの人たちのようにではなく、どんな時も神様に霊とまことによる礼拝をささげることができますように。どうぞ、私たち一人一人を強め、励まして下さい。(2020426日礼拝 武田遣嗣牧師)

 

☆本日、武田牧師は発熱のため礼拝出席を自粛し、メッセージは録音により行いました。