とにかく喜んでいます ピリピ人への手紙1章12~18節

 

【新改訳2017

 

ピリ

 

1:12 さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったことを知ってほしいのです。

 

1:13 私がキリストのゆえに投獄されていることが、親衛隊の全員と、ほかのすべての人たちに明らかになり、

 

1:14 兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことで、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆にみことばを語るようになりました。

 

1:15 人々の中には、ねたみや争いからキリストを宣べ伝える者もいますが、善意からする者もいます。

 

1:16 ある人たちは、私が福音を弁証するために立てられていることを知り、愛をもってキリストを伝えていますが、

 

1:17 ほかの人たちは党派心からキリストを宣べ伝えており、純粋な動機からではありません。鎖につながれている私をさらに苦しめるつもりなのです。

 

1:18 しかし、それが何だというのでしょう。見せかけであれ、真実であれ、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられているのですから、私はそのことを喜んでいます。そうです。これからも喜ぶでしょう。

 

 

 今日はペンテコステであります。聖霊が一人一人の上に下って、そこから教会が立ち上げられていく、主の霊によって動かされて宣教が広がっていく、そのきっかけとなった記念の日です。今日は特に、御霊の実としての喜び(ガラテヤ52223)について考えてみたいと思います。

 

 旧約聖書で聖霊の働きを見ると、特別な場合、特別な人に対する働きでした。しかし、新約聖書ではペンテコステをきっかけに、聖霊の働きは人々に密接なものになっていきました(使徒238,39)。聖霊は私たちが修行をし、課題をクリアしたから与えられるのではなく、一方的に神様の恵みとして心の中にいて下さいます。

 

 いろいろな出来事の中で、喜びを数えやすい人もいれば、絶望を数えやすい人もいます。しかし聖書では、御霊によってあなたは喜び人になると教えています。その実例が今日の箇所です。パウロがイエス様を宣べ伝えていた時、それを快く思わない人が彼を捕らえ、投獄しました。青年律法学者としてトップを走り、熱心にキリスト教を迫害していたパウロが180度変わってキリストを宣べ伝えている、これは同じ律法学者からは裏切り者に思えたことでしょう。パウロは律法の大切さを知らなかったわけではありません。それ以上に、福音のすばらしさを経験したのでした。しかし、今まで地中海沿岸で自由に宣教ができたのに、捕らえられたことによって人々の熱心が打ち消されてしまうのではないか、その影響を考えた時、パウロは悩んだと思います。でも福音宣教という見方からすると、マイナスばかりではないことに気づいたのでした。私たちが出合う様々な苦難は、なければよいと思うことです。しかしふと立ち止まって考えた時、これを神様の恵みの現れ、喜びとして受け止める一点がないでしょうか。恵みを数え、恵みを探す大切さを思わされます。嫌なことを数え始めると、連鎖をするように次々と嫌なことを数え、絶望に落ち込んでいきます。逆に神様の恵みであると気づき始めると、次々に喜びを見出すことができるのです。

 

 ただし、パウロには残念なこともありました。二種類の福音の伝わり方があったのです(16,17)。これはパウロを苦しめるものでしたが、ふと気がつくのです。どちらにしても、福音が宣べ伝えられているということを。つまり、自分の理想とする福音宣教の結果、クリスチャンの姿だけではなく、もっと大きな視野の中で、神のご計画としての福音宣教に気づいたのでした。好き嫌いや辛い、快適などを超えて、神のご計画が進んでいく、その神のみわざに気づく喜びを、私たちはこの箇所で見ることができます。聖書を読んでいくと、不思議なことに年老いてからわかるところが出てきます。今まで気づかなかったことに気づく、そうすると、そこに神様のみわざが広がっていき、何とも言えない喜びが生まれてきます。これは良いことが起こったこととはまた別な話です。聖書を読むだけではなく、私たちの人生で起こる様々な出来事の中で、自分が今まで喜べなかった、あるいは苦しんだことに神のみわざがあるのだと気づいた時、苦しみつつも、心の中で何とも言えないおもしろさが広がってきます。神様のなさることは不思議だな、神様のなさることには間違いは一つもないのだ、だから今自分が苦しむこともまた益なのだと思う、これが御霊の実です。

 

私たちが神様を信じていく、あるいは従っていく時の一つの妨げは、私たちの心の中に神様に触れてほしくない痛み、罪の記憶であります。ですから心を開いて素直に、子どものように聖書を読めない、聖書のことばを意識の外に置きたいと思うものです。でも聖霊様はそういうことも含め、神のご計画として気づかせて下さり、痛みつつも喜びとして下さいます。そしてその喜びは続いていき、天の御国に至るまで私たちに気づきを与えて下さいます。今日の箇所は、御霊の実としての喜びです。パウロがどんなに偉大な人物であるか、自分がどんなにちっぽけな者であるかは関係ありません。パウロが喜んだように、私たちも喜ぶことができます。

 

ペテロは「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」(使徒23839)と言いました。この聖霊の恵みは、神様を本当に信じて洗礼を受ける時に賜物として与えられます。

 

愛する天のお父様、御名を讃美します。あなたはこのように私たちに恵みを備えて下さって、私たちが聖霊様によって心の内側から変えられ、喜んで生きることができるようにして下さっていることを感謝します。すべてのことを喜ぶことができる道がここにあると改めて思い定め、神様に従っていくことができますように。(2020531日礼拝 石岡キリスト教会臼井信博牧師)

 

☆本日は水戸地方講壇交換として、石岡キリスト教会の臼井信博牧師にメッセージを取次いでいただきました。