マルタ島の奇跡 使徒の働き28章1~10節

 

【新改訳2017

 

使

 

28:1 こうして助かってから、私たちはこの島がマルタと呼ばれていることを知った。

 

28:2 島の人々は私たちに非常に親切にしてくれた。雨が降り出していて寒かったので、彼らは火をたいて私たちみなを迎えてくれた。

 

28:3 パウロが枯れ枝を一抱え集めて火にくべると、熱気のために一匹のまむしが這い出して来て、彼の手にかみついた。

 

28:4 島の人々は、この生き物がパウロの手にぶら下がっているのを見て、言い合った。「この人はきっと人殺しだ。海からは救われたが、正義の女神はこの人を生かしておかないのだ。」

 

28:5 しかし、パウロはその生き物を火の中に振り落として、何の害も受けなかった。

 

28:6 人々は、彼が今にも腫れ上がってくるか、あるいは急に倒れて死ぬだろうと待っていた。しかし、いくら待っても彼に何も変わった様子が見えないので、考えを変えて、「この人は神様だ」と言い出した。

 

28:7 さて、その場所の近くに、島の長官でプブリウスという名の人の所有地があった。彼は私たちを歓迎して、三日間親切にもてなしてくれた。

 

28:8 たまたまプブリウスの父が、発熱と下痢で苦しんで床についていた。パウロはその人のところに行って、彼に手を置いて祈り、癒やした。

 

28:9 このことがあってから、島にいたほかの病人たちもやって来て、癒やしを受けた。

 

28:10 また人々は私たちに深い尊敬を表し、私たちが船出するときには、必要な物を用意してくれた。

 

 

 本日の説教は、「神様のご計画」がテーマです。マルタ島の人たちの厚意により、パウロたちは焚火にあたることができました。しかしここで事件が起こります(3,4)。パウロが抱えていた枯れ枝の中にまむしがいて、パウロに噛みついてきたのです。それに対し、島の人々はただ言い合っているだけで、パウロを助けようとしませんでした。正義の女神が決めた運命に逆らっても仕方がない、パウロは悪いことをしたから、私たちが何かをしてもどうせ助からない、マルタ島の人々は希望のない運命論に支配されていました。聖書の考えは、これとは少し違います。神様のご計画の特徴を言うと、第一に人間の意思、言葉、行動が含まれた大きな計画であるということです。つまり神様は、私たちのすることを用いられる、それらは全て神様のご計画の中に入っているということです。第二に義であり、真実であり、愛なるお方が立てた計画だということです。これは何と大きな希望でしょうか。人生の中で、理不尽なことは必ずあります。しかし、その先を計画しておられる方は愛なる方だと聖書に書かれています。神様は愛なる方だから、私の明日を守って下さるという希望と安心が、クリスチャンにはあると思います。どうか皆さんは、悲しい運命論に支配されないようにして下さい。

 

 パウロはまむしに噛まれても無傷でした。そしてこの一件で、島の人々はパウロを大切に扱うようになりました。このことは、神様の計画が非常に奥深いことを示すエピソードではないでしょうか。パウロはイスラエルからローマへの船旅で、三度も(漂流、難破、まむし)命の危機に瀕しましたが、それらは後にすべて益に変えられました。今日の個所を見ると、まむしのエピソードがあったから、マルタ島の人々が目的地ローマへ行くために必要なものを用意してくれたことがわかります(10)。私たちも、困難の中で愛なる神様のご計画があるのだということを覚えましょう。悲しい目に合う運命なんだと絶望してはいけません。私たちは神様に叫び求めましょう。しかし語るだけでなく、みことばを聞きましょう。祈り、聞いて、神様と親しい交わりを持つことで、私たちは困難を乗り越えていくことができるからです。そして困難を通し培った神様との交わりこそ、私たちの人生で最も価値あるものです(ルカ1142)。

 

 パウロはその後、ププリウスの家に招待され、手を置いて彼の父親の病を癒しました(7,8)。この個所とルカ43840はよく似ています。ルカはこの二つの個所に、あえて共通点を持たせているのです。例えば、イエス様もパウロも、招かれた家で発熱した人を手を置いて癒しました。そして一人を癒した後、他の人たちが集まってきたところも似ています。パウロとイエス様の行動が似ていること、これはパウロの内に、神なる聖霊様が働いているということでしょう。私たちも聖霊様に心の内に働いていただいて、神様の働きをしていく必要があります。「奇跡=イエス様に似る」のではありません。そもそも、奇跡は新約聖書の時代でも一部の人しか用いませんでした。私たちは神様からいただいた賜物を結集し、イエス様に似た働きをする教会でありたいと思います。自分ではなく、神様の栄光を表すことが私たちの人生の目的であります。絶望やあきらめに満ちた運命論に支配されるのではなく、神様の立てたご計画に参与する喜びに満ち溢れていきたいと思います。

 

 天の父なる神様、あなたのつくられた世界の中で、あなたのご計画に参与することのできる恵みをありがとうございます。神様が私たちをつくられた目的は、自分自身の栄光を表すためではなく、神様の栄光を表すためです。そしてこの本来の目的に向かって歩む時、私たちには本当の満足と喜びがあります。神様、どうぞ聖霊様を一人一人に送って下さって、神様のすばらしいご計画に参与することができますように、一人一人を祝福してお用い下さい。(2020614日礼拝 武田遣嗣牧師)