みことばを聞く幸い サムエル記第一3章1~9節

【新改訳2017

Ⅰサム

[ 3 ]

3:1 さて、少年サムエルはエリのもとで【主】に仕えていた。そのころ、【主】のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。

3:2 その日、エリは自分のところで寝ていた。彼の目はかすんできて、見えなくなっていた。

3:3 神のともしびが消される前であり、サムエルは、神の箱が置かれている【主】の神殿で寝ていた。

3:4 【主】はサムエルを呼ばれた。彼は、「はい、ここにおります」と言って、

3:5 エリのところに走って行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは「呼んでいない。帰って、寝なさい」と言った。それでサムエルは戻って寝た。

3:6 【主】はもう一度、サムエルを呼ばれた。サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは「呼んでいない。わが子よ。帰って、寝なさい」と言った。

3:7 サムエルは、まだ【主】を知らなかった。まだ【主】のことばは彼に示されていなかった。

3:8 【主】は三度目にサムエルを呼ばれた。彼は起きて、エリのところに行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは、【主】が少年を呼んでおられるということを悟った。

 

3:9 それで、エリはサムエルに言った。「行って、寝なさい。主がおまえを呼ばれたら、『【主】よ、お話しください。しもべは聞いております』と言いなさい。」サムエルは行って、自分のところで寝た。

 祭司エリは目がかすんで見えなくなり(2)、415では完全に見えなくなったと記されています。つまり、悔い改めないエリが益々神様を見失っていく様子が、彼の視力と重ねて表現されているのです。一方、光り輝く灯の中、神様と共にいる人物がサムエルです。「ともしび」(3)とは、出エジプト272021に書かれている「ともしび」で、それは夕方から朝までともし続けなければならず、神様の臨在を象徴するものでした。本来、この仕事はアロンとその息子がすべきものなのですが、祭司ではない少年サムエルがこの役目を担って主に仕えていました。おそらくサムエルはこの仕事を積極的にするために、神殿で寝ていたのでしょう。

 さて、神様はサムエルに語りかけられたのですがが、サムエルはエリが自分を呼んだと勘違いをしてエリのところに行きました。サムエルはこの後預言者となるのですが(20)、はじめはみことばを聞いても、別方向へ走ってしまったのです。「サムエルは、まだ主を知らなかった」(7)とは、彼が主を人格的に知らなかったということです。サムエルは確かに神の存在を知っていたと思いますが、まだ神と親しくなっていなかったのでしょう。7節までで神様はサムエルに二度呼びかけましたが、サムエルは応答しませんでした。つまり、神様とキャッチボールができていなかったのです。神を知っているとは、どれほど聖書の情報を頭に詰め込んでいるか、どれだけ流暢に聖書の内容を語れるかではありません。私は今週、自尊心を傷つけられるようなことがあり、とても悩みました。何度か牧師室から礼拝堂に来て祈り、仕事に戻ることを繰り返していたのですが、その中で主から平安をいただくことができました。私たちは弱さを抱えたまま生きていくものです。しかし感謝なことに、この弱さを受け止めて下さる神様のところに、私はいつでも行くことができます。そしてこの弱さを吐き出し、みことばを読む中で気づくのは、ああ、どれほど私の信じる神様は大きいのかということです。私は弱い、小さいということはあまり変わりません。しかし強く大きな神様の臨在を感じる時、私はまた新しい一歩を踏み出すことができます。みことばを読んで祈る、この最もシンプルな神様とのキャッチボールが、どれだけ私の人生に必要かということを改めて教えられた一週間でした。

 エリは主がサムエルを呼んでおられることを教えました(8,9)。彼には悔い改めない頑ななところがありましたが、サムエルがみことばを知るために必要不可欠な存在でした。私たちはみことばを理解するために他者が必要です。一緒に読んでくれる仲間が必要です。私が神学校で最初に教えられたことは、人間の色眼鏡ははずせないということでした。自分の人生経験や性格、その日の感情に必ず左右されてみことばを読みます。そんな時、共に読む、共に聞く人たちが私たちには必要なのです。今週、牧師向け伝道セミナー(勝田教会)に参加しました。勝田教会には二種類のグループがあり、一つは歌を歌ったり、水彩画を描くなどのグループ、もう一つはシンプルに聖書を読むグループがいくつかあるそうです。どちらで救いが起こるのかというと、後者だという話を聞きました。聖書を読むグループの方が、求めの強い人が来るから当然だろうという意見もありますが、一緒にみことばを聞く、いっしょに読むという力を教えられたような気がしました。私たちは自分の宝物を見せ合うように、みことばを分かち合う、そんな教会でありたいと思います。

 本日は、サムエルにみことばが下った個所を読みました。後に預言者になるサムエルでさえ、はじめはみことばがわかりませんでした。しかし、何度もみことばを聞き、エリから話を聞くことによって、サムエルはみことばと神を知ることができるようになりました。私たちはみことばを聞き、祈り、また礼拝に出て、少しずつ神様と親しい交わりを持つことができます。私たち信仰者にとって最も大きな喜びは、いくつ願いがかなえられたか以上に、神様との親しい関係性の中にあるのではないでしょうか。この関係性は、私たちが天国に行っても続く親しいものです。ぜひ日々みことばを聞き、祈ることにチャレンジする一週間でありますように。

 

 天の父なる神様、愛する兄弟姉妹と共に、みことばを聞くことができましたことをありがとうございます。みことばが私たちに与えられていることは、普通のことではありません。主よ、どうぞ私たちがみことばを心に留め、一週間を歩むことができますように。苦しい時、悲しい時、また喜びの日も神様のみことばを聞き、また自分の思いや願いを神様に伝えることができますように、今週もどうぞ共にいて下さい。(2020913日礼拝 武田遣嗣牧師)