預言者サムエル サムエル記第一3章10~21節

【新改訳2017

Ⅰサム

3:10 【主】が来て、そばに立ち、これまでと同じように、「サムエル、サムエル」と呼ばれた。サムエルは「お話しください。しもべは聞いております」と言った。

3:11 【主】はサムエルに言われた。「見よ、わたしはイスラエルに一つのことをしようとしている。だれでもそれを聞く者は、両耳が鳴る。

3:12 その日わたしは、エリの家についてわたしが語ったことすべてを、初めから終わりまでエリに実行する。

3:13 わたしは、彼の家を永遠にさばくと彼に告げる。それは息子たちが自らにのろいを招くようなことをしているのを知りながら、思いとどまらせなかった咎のためだ。

3:14 だから、わたしはエリの家について誓う。エリの家の咎は、いけにえによっても、穀物のささげ物によっても、永遠に赦されることはない。」

3:15 サムエルは朝まで寝て、それから【主】の家の扉を開けた。サムエルは、この黙示のことをエリに知らせるのを恐れた。

3:16 エリはサムエルを呼んで言った。「わが子サムエルよ。」サムエルは「はい、ここにおります」と言った。

3:17 エリは言った。「主がおまえに語られたことばは、何だったのか。私に隠さないでくれ。もし、主がおまえに語られたことばの一つでも私に隠すなら、神がおまえを幾重にも罰せられるように。」

3:18 サムエルは、すべてのことをエリに知らせて、何も隠さなかった。エリは言った。「その方は【主】だ。主が御目にかなうことをなさるように。」

3:19 サムエルは成長した。【主】は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とすことはなかった。

3:20 全イスラエルは、ダンからベエル・シェバに至るまで、サムエルが【主】の預言者として堅く立てられたことを知った。

 

3:21 【主】は再びシロで現れた。【主】はシロで【主】のことばによって、サムエルにご自分を現されたのである。

 神様は、私たちに厳しい言葉をかけられることがあります。愛しなさい、ゆるしなさい、このような命令は、憎い人がいるなら厳しい命令です。他にも、~てはならないという命令は、聖書に多く記されています。しかしそれはすべて私たちのためです。真の神様は、私たちと継続的に関わって、御国に行くまで育てたい(聖化)と考えておられる神様です。この方は、一年に何度か挨拶に来ればいい神ではなく、今日もあなたを愛し、あなたの人生に積極的に関わることを望んでおられる神です。今日は、神様が少年サムエルを預言者に育て上げる個所を共に読んでいきましょう。

 10節は、神様から少年サムエルへの三度目の呼びかけです。みことばは、聞いたら応えることが大切ではないでしょうか。聞きっぱなしではなく、そのみことばに表されている神様のすばらしさを賛美したり、みことばで命じられていることを具体的な行動に移したり、またみことばを聞いて祈る、聞きっぱなしにしないということを、神はいつも私たちに求めておられます。私は兵庫県出身で、高校教育は二宮尊徳の教えに基づいていました。彼の主要な教えの一つに、「以徳報徳」があります。これは、受けた善意は善意で返すという教えで、高校では毎週このような教えを聞く授業がありました。しかし、この授業は成績や受験には何の関係もありません。生徒は飽きてしまい、先生もやる気をなくしていきます。先生は教えを言っとくだけ、生徒はその教えをほっとく、これこそ「以徳報徳」だと言われていました。神様はみことばを言っとくだけではありません。愛する父親のように私たちを継続的に育てたいという思いがあるのです。ですから私たちは、聞き応答するというキャッチボールの中で、神様との関係性を築いて信仰者として成長していきたいと思います。

 1113節には、神様からサムエルへのみことばが語られています。これは非常に厳しいものでした。内容は祭司エリへのさばきでした。エリがさばかれる大きな理由は、エリが神より息子を重んじたことにあります。エリは二度神様から警告を受けましたが、悔い改めることができず、ただみことばを聞くだけでした。

 サムエルはその後朝まで寝て、いつものように神殿の扉の鍵を開けたのでしょう。そして徐々に事の重大性に気付いていきました。サムエルにとってエリは親代わりでした。エリもサムエルに我が子よ、と語りかけています。サムエルはそんなエリに対し、厳しいことばを語らねばなりません。そうこうしているうちにエリがやってきて、昨日サムエルに語られた主のことばが何だったのか尋ねました(1618)。サムエルは、エリへのさばきのことばをすべて伝えました。サムエルは恐れに(15)打ち勝ったのです。この出来事は、サムエルにとって大きな一歩になりました。

 サムエルは成長して預言者になりました(1920)。預言者とは、神様からみことばを聞いて、それを人々に伝える人です。サムエルはここから、全イスラエルのリーダーとしての務めを果たすことになります。サムエルは18節で耳に痛いことばを聞いて、それに応答しました。それが彼にとって大きな一歩となったのです。皆さんはどうでしょうか。あの誘惑に打ち勝つこと、あの罪を悔い改めること…、サムエルに倣い、神に示されている耳に痛いことばに応答する者でありたいと思います。一方、エリの言葉は信仰に篤い人の言葉のようですが(18)、彼はこの後もみことばに応答しませんでした。耳に痛いことばを聞き流すことしかできなかったのです。

 サムエル記第一は、中盤からダビデが登場します。ダビデは、エリ以上に大きな罪を犯しました。勿論ダビデにもさばきの宣告がなされたのですが、ダビデはすぐに悔い改め、応答してゆるしを得ました。ダビデとエリの違いは、耳に痛いみことばを聞き、応答したか否かです。みことばを受け入れた先に、ゆるしがあります。

 「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(Ⅱテモテ315b~17

聖書には、どんな犯罪を犯した人にもその人を救う力があります。しかし救いを受けるには、私たちの罪に関する耳に痛いみことばを聞く必要があります。但しこの罪の宣告は、私たちを愛する神様から出ていることを覚えましょう。神様は罪を自覚させ、悔い改めに、救いに導いて下さいます。また、聖書全体を神様からのメッセージとして受け取る信仰者、教会でありたいと思います。

 

 天の父なる神様、御名を崇め賛美いたします。神様は時に私たちに真実な、また厳しいことばをかけることがあります。しかし私たちが忘れてはならない前提は、神は愛なるお方だということです。子どもの成長を見守る父親のように、私たちに必要なみことばをいつも私たちにかけて下さいます。どうぞ、私たちがみことばを聞き応答し、聞き応答して人生を歩んでいくことができますように。そして主の働き人として、十分に整えられた者として、歩むことができますように助けて下さい。(2020920日礼拝 武田遣嗣牧師)