ペリシテ人への災難 サムエル記第一5章1~12節

【新改訳2017

Ⅰサム

[ 5 ]

5:1 ペリシテ人は神の箱を奪って、エベン・エゼルからアシュドデまで運んで来た。

5:2 それからペリシテ人は神の箱を取り、ダゴンの神殿に運んで来て、ダゴンの傍らに置いた。

5:3 アシュドデの人たちが、翌日、朝早く起きて見ると、なんと、ダゴンは【主】の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。そこで彼らはダゴンを取り、元の場所に戻した。

5:4 次の日、朝早く彼らが起きて見ると、やはり、ダゴンは【主】の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。ダゴンの頭と両手は切り離されて敷居のところにあり、胴体だけがそこに残っていた。

5:5 それで今日に至るまで、ダゴンの祭司たちやダゴンの神殿に入る者はみな、アシュドデにあるダゴンの敷居を踏まない。

5:6 【主】の手はアシュドデの人たちの上に重くのしかかり、アシュドデとその地域の人たちを腫物で打って脅かした。

5:7 アシュドデの人たちは、この有様を見て言った。「イスラエルの神の箱は、われわれのもとにとどまってはならない。その手は、われわれとわれわれの神ダゴンの上に厳しいものであるから。」

5:8 それで彼らは人を遣わして、ペリシテ人の領主を全員そこに集め、「イスラエルの神の箱をどうしたらよいでしょうか」と言った。領主たちは「イスラエルの神の箱は、ガテに移るようにせよ」と言った。そこで彼らはイスラエルの神の箱を移した。

5:9 それがガテに移された後、【主】の手はこの町に下り、非常に大きな恐慌を引き起こし、この町の人々を上の者も下の者もみな打ったので、彼らに腫物ができた。

5:10 ガテの人たちは神の箱をエクロンに送った。神の箱がエクロンにやって来たとき、エクロンの人たちは大声で叫んで言った。「私と私の民を殺すために、イスラエルの神の箱をこっちに回して来たのだ。」

5:11 それで彼らは人を遣わして、ペリシテ人の領主を全員集め、「イスラエルの神の箱を送って、元の場所に戻っていただきましょう。私と私の民を殺すことがないように」と言った。町中に死の恐慌があったのである。神の手は、そこに非常に重くのしかかっていた。

 

5:12 死ななかった者は腫物で打たれ、助けを求める町の叫び声は天にまで上った。

 今日の個所の舞台はイスラエルではなく、ペリシテです。しかし神はペリシテの地であっても、力強く働かれました。神の恐ろしいほどの偉大さを、みことばから学びましょう。

 

 「エベン・エゼルからアシュドデまで運んで来た」(1)というのは、戦場から自分の町に持ち帰ったという意味です。ペリシテはイスラエルとの戦いに勝ち(4章)、戦利品として神の箱を運んできました。神の箱は神そのものではありませんが、神を象徴する箱でした。この神の箱に神が働いて、ペリシテ人の地で神のみわざがなされていきます。「ダゴン」(2)はペリシテ人が信じていた偶像の神で、BC2500年にはすでに存在し、信じる者に豊作を約束する神でした。また、バアルの父親の神だと言われています。ペリシテ人がダゴンを神殿のわきに置いたところ、翌朝ダゴンは主の箱の前にうつぶせになって倒れているのが見つかりました(3)。「~の前にうつぶせになる、ひれ伏す」という表現は、旧約聖書では神を礼拝する時に使われます。つまり、まるでダゴンが真実の神様を礼拝しているかのような描写です。さらにペリシテ人は腫物に苦しめられました。神様はこのように厳しい方法で、ペリシテ人に自分が真の神であることを知らしめようとされました。しかしこの時点で、彼らは真の神を信じませんでした(7)。彼らにとって、真の神はイスラエルの神でしかなかったのです。

 さて、ここでペリシテの主要な都市(エクロン、アシュドデ、ガデ、アシュケロン、ガザ)を紹介します。まず、神の箱はアシュドデからガデに移動しました。ガデについて現在唯一わかっているのは、ペリシテ人の大男ゴリヤテの出身地だということだけです。つまり、屈強な戦士がたくさんいた町かもしれません。しかしガデも神様に打たれてしまいました。そこで神の箱はエクロンに運ばれました。エクロンは当時、オリーブ油の産地だったことがわかっています。ペリシテ人は、エクロンで造られたオリーブ油を売って、武器や食料を買っていたのでしょう。エクロンは産業の中心地だったわけです。しかしエクロンでも、神に太刀打ちすることはできませんでした。神の箱はどこに移動しても、その町に恐ろしい災いをもたらすのでした。ペリシテの領主たちは集い、神の箱をイスラエルに戻すことを決めました(11)。

 第一サムエル記5章のテーマは、神の偉大さです。神は世界のすべてを治めておられる方です。国境を越えれば力が無くなってしまうような方ではありません。今はウィルスが世界を制覇しているように思えますが、実は最も上で世界を統治しておられるのは神である、5章は、私たちにこれを伝えたいのではないでしょうか。ただ心に留めたいことは、神は恐ろしいほどの力を持っておられると同時に、私たちの間に住んで祈りを聞いて下さる方だということです。

 JBフィリップスは彼の著書「あなたの神は小さすぎる」で、多くの人は神に対して極端な見方をしていると主張しています。つまり、ある人は神を天の警察官のように見ていて、人が過ちを犯していないか常に見張っている恐ろしい方だと考え、またある人は神を優しい老紳士のように見ていて、人が人生を楽しむことを一番に考え、とやかく言わない方だと考えている、そしてどちらかに偏ることは、神を小さく見ることだと主張しているのです。神を天の警察官のように見ている人は、怯えて神の愛に目を向けることができないかもしれません。逆に神を優しい老紳士のように見ている人は、神の正義や悪を罰する部分に目を向けることができないかもしれません。神の一面だけに目を留めるのではなく、自分の神観だけでは受け入れ難いような神のご性質について考え、受け入れることで、神がどれほど豊かな方なのか、より深く知ることができるのではないでしょうか。

 

 天の父なる神様、みことばをありがとうございます。私たちも、自分に都合のいい神様を求めてしまうことがあります。しかし、その神は小さすぎるのです。どうぞ、聖書に書かれている真実のみことばを聞き、思い巡らして、神様の豊かなご性質を私たちが知り、神様との人生を喜ぶことができますように。神様、どうぞお助け下さい。(20201011日礼拝 武田遣嗣牧師)